七幕
異形はゆっくりと立ち上がりながら、頭を起こす。
そこには六つの複眼が蠢く、青白く血の気のない女の首が据えられている。女の口は耳元まで裂け、鎌のような割れ顎が飛び出し、ガチガチと飢えた音を立てる。
「……下がれ。」
玄之丞は目を逸らさず、脇差の腹で椿を押した。
「冗談はよせ。斬裂稼業は妖も範疇か?」
椿は踏みとどまる。
牛のように巨大な腹部は針のように硬く赤黒い剛毛に覆われ、一本一本が、周囲の妖気に反応してサワサワと不気味に波打つ。
「聞け——。」
「聞かぬ!」
椿は瞬時に間を詰めると、地を蹴り、異形の首元目掛け一閃。
しかし、脚の一本が異常な速度で横槍を差し、けたたましい金属のような音を響かせて、椿は一瞬、空に止まる。
即座に貫こうと迫る別の脚。これを玄之丞は下から縦に円を描くように太刀で払い、自身を挟むように迫る脚も二刀でいなした。
返す刀で袈裟に斬りつける。
——通らない。
椿が追い打ちの突きを放つ。
これも弾かれ、椿の身体が大きく仰け反った。
その隙を狙い、別の脚が椿へ迫る。
——姉ちゃん、姉ちゃん。
——いつもありがとう、姉ちゃん。
——守ってくれてありがとう——。
「三吉!?」
数瞬後。椿は意識を取り戻した。
(……そうだ、妖!)
すぐに構えようとするが、何かが覆い被さって体が動かない。
引き抜いた手は、赤黒い血に染まっていた。
反対の手で握られていた刀は、その刀身を失っていた。
「おい!斬裂屋!息はあるか!」
玄之丞の体を揺すりながら、椿は下敷きになった体を抜く。
藍色の羽織が、赤黒く滲む。
「斬裂屋、お前……。」
椿はひとたび、目を瞑る。自らの野袴を破り、解けた髪を再び束ねる。
「侍の”誇り”、ひと時借り受けるぞ。」
椿は玄之丞の刀に手を伸ばす。
椿は怪異に対峙した。
人ならざぬ女の顔、牛のような巨躯、刃の様な八本の脚。
その様は、まさに——。
「御伽噺でしか聞いたこと無かったな」
椿は、自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
何故かはわからない。
勝てないかもしれない。
ただ、自分を庇い傷付いたあの男を、今は——。
「——殺させない。」
椿の手数は、常軌を逸していた。
斬り付ける。
下がる。
ただそれだけの。
ただそれだけの、神速の如き繰り返し。
椿は呟く。
「成程、いい刀だ。あんな斬り方にもなる。」
玄之丞の打刀はいまだ刃毀れ一つしていない。
ただし、それは土蜘蛛の脚も同じ。
そして例えば、如何なる達人も所詮は人の子。
疲労が椿の体を蝕む。
加えて、当たれば致命。
ひりひりと、首筋に熱いものを感じながら、それでも椿は。
「……くっ!」
不意に放たれた脚の一撃。椿の手に握られた打刀が、弾き飛ばされた。
目線だけ、玄之丞をちらりと見て、椿は咄嗟に、落ちていたごろつきの刀を拾い上げ、構える。しかし。
土蜘蛛の脚が脇腹を抉る。
ぼたぼたと、血が落ちる。
別の脚の無慈悲な追撃。
これを辛うじて刀で受けた椿は後ろに飛ばされる。
脇腹の痛みについ、再び刀を落とす。
そのまま椿はよろけた——。
「…成程。」
今にも倒れそうなその体を支えたのは、玄之丞だった。
玄之丞は椿を立たせると、歩を進める。自身の打刀を拾い——。
「……お前、食ったな。」
玄之丞の髪が逆立ったように揺れる。
目に力が籠る。それは月を反射してか、懐に下げられた新緑の勾玉が、淡く光を放つ。
光は玄之丞の体を包むように走り、刀身へと集約していく。
玄之丞は構え、踏み込む。迫る土蜘蛛の脚に刀身を合わせ、擦り弾く。椿は見逃さなかった。
(……傷が付いた!)
それは一本だけの偶然ではなく、時に斬り込み、時に食い込み、着実に刃跡を残していく。
「おい侍、何なのだその力は!」
「俺にとっては名刀だ……。」
椿は落とした刀に手を伸ばし、激痛に顔を歪ませる。
振り返らずに玄之丞は手で制し、土蜘蛛に斬り込んで行く。
交互に迫る八本の脚は捌き切れず、刃の様な脚先が触れる度、血が吹き出す。
玄之丞は止まらない。
袈裟に横薙ぎに、蜘蛛も、己も、傷付け刻んでいく。
「……!」
土蜘蛛の足が玄之丞の胸倉を突き抜く。
「おい侍!」
玄之丞は半月に斬り上げる事で脚を強引に弾き、引き抜く。その太刀筋は脚の筋に傷を付けていた。
玄之丞は椿に眼をやる。
椿は少し止まり、頷き、構える。
椿では気付かない程小さく、血の滴る玄之丞の口角が、緩む。
「……頼んだ。」
向き直ると玄之丞は、さらに踏み込む。重心を落とし、迫る土蜘蛛の脚を可能な限り下から、否。裏から斬り上げていく。土蜘蛛の猛攻は変わらない、しかし、何時しか玄之丞に押されている形になっていた。
「さしもの妖も、こうなっては手数が足りぬようだな。」
椿の足元には、傷の入った節に刀を通され、寸断された脚先が転がっていた。
土蜘蛛は一際大きな咆哮を上げ、力任せに玄之丞へ叩きつける。それを二刀で受けるも、傷から血が噴き出し、玄之丞は膝から崩れ落ちた。
振り返った土蜘蛛は、残された脚を振り被り、椿に迫る。椿の眼が霞む。最早、柄を握る手に力が入らない。
しかし。
(——そうか、これが安心か。——ありがとう。)
瞳を閉じた椿の表情は、柔らかかった。
(——守ってくれてありがとう。)
淡く、穏やかな緑の太刀筋だけを残し、異形は左右に斬裂かれた。
土蜘蛛を、一刀両断に屠った男の藍羽織も、白銀の髪も、梅の様に鮮やかな赤に染まっていた。




