第五章 焼野の月 三幕
厨の匂いに目を覚ます。
遠い昔の記憶。母と寝た夜着の感触。
目をこすろうと動いたが、肩に激痛が走り顔を歪ませる。
もう片方の手で触れると、包帯が巻かれていた。
痛みに耐えながら上体を起こす。
「起きたか?」
声のする方を向くと、男が食事の用意をしていた。
「腹減ってるだろ?」
男は準備を続けながら話しかける。
二杯のお椀に白米がよそわれる。
腹が鳴る事で、空腹を認識した。
「体動かないだろ、そっちのままでいいぞ。」
男は味噌汁を二杯よそう。
少年は顔を歪ませながら立ち上がり、促されるまま、二人分の食事の用意がされた卓に付いた。
「話は後だ。まずは食え。」
男の言葉を皮切りに、一心不乱に食べた。礼儀作法も何のその、箸もろくに握れない手で直接食べた。
何年かぶりの白米のなんと旨い事か。
味の付いた味噌汁。
塩の振ってある焼き魚。
漬けこまれた野菜。
山菜は調理でこんなにも旨くなるのかと、ただ喉に押し込んだ。
男はその姿を、真剣な顔で見つめていた。
そして。
「おい。」
不意に声を掛けられた少年は一瞬びくりと手を止め、男の方を向いた。
男は真剣な顔つきで少年を見つめ——。
「おかわりは?」
と聞いてきた。
茫然と男を見上げる。
男は少年の前から空になった茶碗を取り上げると、もう一度白米で満たした。
「おかわり、だよ。食え。」
そしてその茶碗を満面の笑みで差し出した。
少年は二杯目の米を食べながら泣いた。
男は食べ終わった少年を連れて外に出る。
「あの山で藤原の若え衆が鷹狩だとか言って騒いでたけど、あそこから来たのか?」
男は山を指差しながら聞いてきた。少年は頷いた。
「そっか。坊主、名は?」
沈黙。
幼い頃に攫われてきた。
名を覚えていなかった。
勘太や留吉など、名を知っている子供も中にはいたが、自分のように名を知らぬ子供は他にもいた。
だから気にもしていなかった。
新之丞に名を聞かれたことはあったが、別に不便はなかった。
だが。
だが今は違う。
自由になった。
生かしてくれた仲間が居た。
だから、名は——。
「玄之丞。」
「……ほう。」
男は一瞬驚いた表情を見せ、上体を下げる。
そしてそのまま玄之丞の体を持ち上げると自身の肩に乗せた。
「おい、何すんだよ!」
玄之丞は戸惑い逃げようと体を揺らすが男の手が足を固定していて抜け出せずにいた。
「いい名だな……。」
男は小さく呟いた。
玄之丞からは見えないので知る由も無いが、その表情は。
「じゃあお前は今日から俺の息子、玄之丞だ。」
この上なく笑顔であったのだろう。
おかわりを渡す時のような、満面の。
慣れない座り心地を落ち着かせるように、玄之丞は視線を動かす。
昨夜の喧騒が、何もなかったかのように佇む山。
誰も走ってこない道。
見ず知らずの自分に、食事を与えた男。
そして、どこまでも高い青空。
自分でも気付かない内に、右手には首飾りの勾玉を、しっかりと握りしめていた。




