第二章 終幕
社の縁で、姫は滝を見詰めて手を合わせる。
「芝っつあん……。」
——縁側で煙管をふかす芝。その背にこっそりと、蟷螂を乗せる姫。
——うつ伏せに寝る父の背に乗り、足で揉む。口に人差し指を当て、手招きする姫に、抜き足で近付く芝。
——父と並んで見下ろす城下街。振り返れば、微笑む芝。
姫の目尻が、小さく光る。
「ほっほ……お呼びでしたかな。」
振り返ると、いつもと同じ笑顔で、芝が立っていた。
「芝……その模様は一体……?」
上衣を脱ぎ捨てた老体には呪印が刻まれていた。
「ほっほ。些か……永うございましたわい。姫もこれほど、立派で美しく……。」
「そんな事を聞いておるのではない!」
姫は半歩、詰め寄り平子を見詰める。
「その傷は何じゃ!父上は何故死んだのじゃ……!わらわに何を隠して……。」
姫は言葉を詰まらせる。
「……何を……背負っておるのじゃ……。」
その眼には、いつも通りの好々爺が少しだけ……寂しそうに見えた。
「……そして何故、そなたがその刀を……。」
芝の呪印を見詰める。
「……まさか。」
「ほっほ、永うございましたが……この芝めには……褒美でありましたわい。」
芝が遠くを見詰める。
「芝!答えよ!……え?」
叫ぶ姫に掌を向け、芝はゆっくりと振り返る。
「追い付いたで鬼爺。」
榊と玄之丞が息を切らせ、立っていた。
芝が小さく手を叩いた。
「ほっほっほ……追い詰められてしもうたのう。」
榊は口元の笑みの奥で歯を噛み締める。
芝を、呪印を、殲樹莫を見詰め……。
「鬼やのうて狸か、爺。」
柄に手を掛ける榊。
芝は、小さな声でぽつりと溢した。
「あの赤羽織より……。」
その瞬間、榊は寒気を覚え、そっと玄之丞へ眼を向ける。
玄之丞は重心を落とさず二歩、前に出る。
榊は何かを言いかけて、柄から手を離した。
「……ええで、好きにしや。」
「はて……。」
芝は顎に手を当てながら、瞼の奥で二人を交互に見詰める。
そして、小さく頷くと、杖もなく……玄之丞へと歩を進める。
向き合う玄之丞と芝。
玄之丞はただ静かに芝を見据える。
芝は俯き加減に、ぽつり、と呟いた。
「ほっほ……ほんに大きゅうなられた。」
芝は目尻に深い皺を寄せ、玄之丞へそっと、煙管を差し出した。
玄之丞は受け取り、煙管を見つめる。
丁寧に使い込まれた、黒紫色の輝き。継ぎ目の無い赤銅に小さな傷が残る。
「……これだけは、本物でしてな。」
玄之丞は芝を見詰める。
芝も玄之丞を見詰める。
榊はそっと、姫の前に体を被せる。
芝は榊へ向け、そっと微笑む。
榊も芝を見詰める。
一瞬、玄之丞の瞳に陰が映る。
芝は口元を小さく緩める。
玄之丞は頷いた。
芝は振り返ると歩き出し、徐に立ち止まる。
自分の体に殲樹莫を突き立てる。
両手を合わせ、印を結ぶ。
独鈷……大金剛輪……外獅子……内獅子……。
呪印が蠢き形が変わる。
それは、鞘に施されていた封呪。
芝は最後に振り返り、榊の後を見る。
榊は玄之丞へ眼を向ける。
芝も玄之丞を向く。
玄之丞は頷く。
芝は再び歩き出し、滝壺に身を投げ込んだ。
瀧音が響く。
流れる水は、豊かな山の恵みを遠い地へと運んで行く。
姫はただまっすぐと滝を見詰める。
「……父上にとって芝は宝でした。」
視線を下に向けぬよう、そっと瞳を閉じる。
榊は姫から目線を外し、その氷のように冷たい眼を雲に向ける。
「その芝爺にとっては……あんたや。」
「……。」
姫の肩が震え、膝から崩れ落ちる。
玄之丞の煙管を持つ手が少しだけ、震えた。
「あんじょう気張りや。」
榊は体を返し、手を振りながら去っていく。
玄之丞は煙管を見つめた。
ゆっくりと火を点け、煙を深く吐き出す。
紫煙が、空へと溶けていく。
そして――
その煙を見送りながら、姫の頭にぽんと手を置いた。
梅屋始末帳 第二章 完




