9 ファミレスと空き家
翌朝の出勤時、僕は斧の近くを通りかかる際に耳を澄ませた。
昨夜は妖の声が聞こえた。雨月はたった五日で? と僕の成長に驚いていた。
僕の力が増したのなら、自分を僕にしてくれと頼む声が聞こえるかと思ったんだけど、何も聞こえなかった。雨月は? と隣を見たら。目が合った。
「今朝は何も言っていない。諦めたのだろう」
「なんだか可哀想じゃない? 斧は長いこと一人ぼっちなんでしょ?」
返事はなし。まあいい。僕自身、まだ迷っているもの。
「榊原に何か言われたら、俺が説明すると伝えろ」
「うん」
「そして帰りには神札を授かりに行こう」
「わかった」
僕の返事が素っ気ないのは、神札が何を指しているのか若干自信がないからだ。でも多分あれでしょ? 時代劇とかホームドラマとかで壁の上の方に貼られている、筆で書かれた縦長のお札のことでしょ?
僕が育った家にはその手のものが一切なかったし、「しんさつ」なんて聞いたのも初めてだ。友人の家でも見たことがなかったと思う。あれを換気扇フードに貼るのだろうか。その札だけ部屋の雰囲気から浮かないか?
「見た目などどうでもいい。お前が狙われているのだ。少しは危機感を持て」
「……はい」
今日も真面目に働いた。ご年配の来庁者さんの質問に応えて年金の説明をして過ごし、お昼にはマンダリンカフェの行列をチェックした。行列は日に日に長くなっているような。
今日も無理だなとカフェ飯を諦め、職員食堂へ向かった。
職員食堂は安くて助かるけど、全般的に味が薄い。職員の健康に配慮してくれているのはわかっている。ただ、薄めの味付けと素っ気ない食器が、漠然と病院の食事を連想させる。
入院していた母さんが亡くなる少し前、母さんは食欲を失っていた。
学校帰りに毎日病院へ顔を出していたけど、少しずつ痩せていく母さんは「おなかが空かないのよ」と言っていた。ほとんど手付かずの食事を味見してみると、決して不味くはない。栄養のバランスもいい。
「もうおなかが空かないし、何を食べても美味しくない。こんなに早く食べられなくなる日が来るんなら、もっと好きなものを美味しく食べておけばよかった。長生きすると思っていたから節制していたのに」
「そんなこと言わないでよ。病気が治ったら、美味しいものを好きなだけ食べに行こうよ。僕、どこでも付き合うよ」
そう言うと、母さんは寂しそうに笑うだけだった。
昨今は患者に正確な病状を告げるから、母さんは治らないことを知っていたんだと思う。当時、母さんの病気の深刻さを知らなかったのは僕だけだった。あの頃の母さんは僕に「治ったら」と言われて、どんな気持ちだったのか。
母さんのことを思い出しながらハヤシライスを食べていたら、また僕の前の席に榊原さんが座った。榊原さんは今日もきつねうどんだ。
「こんにちは、統神君」
「どうも」
「君のご親戚に会わせてほしいというお願い、ご検討いただけましたか?」
「彼は会って話をしてもいいと言っています」
「本当に⁉ ありがとう。嬉しいです。会えるのはいつです? 今日?」
「今日、十八時に庁舎前で待ち合わせで」
「感謝します!」
榊原さんはきつねうどんを食べ始めた。四角い黒縁メガネのレンズが真っ白に曇ってるけど、気にしないらしい。
この人、よく見ると整ったきれいな顔立ちだ。やせ型で背も高い。さぞかし女性にモテ……ないか。独特の口調で情報満載な話をするし、ガトリング砲みたいな早口。あれは同好の士でないと厳しい。
とは言え、僕も人のことを言えない。長いこと恋人がいないし、恋人ができてもお付き合いが続いたためしがない。
女性から告白されてお付き合いしても、「統神君て、自分がないし頼りない」的なことを言われて振られる。それが中学生の頃から何回繰り返されたか。
最近はもう、女性から告白されても丁重にお断りしている。振られて傷つくのがわかっているのに、交際する気力がない。
十八時になり、雨月と僕、榊原さんは庁舎から近いファミレスに入った。榊原さんがとてもご機嫌だ。
僕がタブレットで雨月にメニューを見せ、自分のハンバーグセットと雨月のハヤシライスを入力した。榊原さんは鴨蕎麦と稲荷寿司のセット。油揚げが好きだねえ。
榊原さんがすぐに、「雨月さんはカフェの中にいたのに、なぜ庁舎内の騒動に気づいたんです?」と質問した。
「庁舎の中からたくさんの人が飛び出したからだ」
「それで気づいたんですか。なるほどなるほど。で、雨月さんはものすごく高速で走れるんですね。しかも、走りながら自動ドアを離れた場所から開けていましたね」
雨月と僕はとっさに言葉が出ず、間が空いた。榊原さんがニンマリとする。
あっ、そういうこと? 榊原さんは最初からこれを聞きたかったの?
わざと雨月が答えやすい疑問を僕に投げて話し合いの場を作らせ、本当に聞きたい質問をぶつけるつもりだったの?
ところが雨月はこれに柔軟に対応した。
「本気で言っているのか? そんなことができるわけがないだろう」
「録画ではそう見えましたが」
「では、そんなことができるかどうか、あのドアを作った会社に聞いてみればいい」
「……なるほど。そうきましたか」
自動ドアの会社が「できますよ」なんて言うわけがない。榊原さんは急に話題を変えた。
おじいさんがベルギー人で大の日本贔屓なこと、若い頃に来日して第二のラフカディオ・ハーンを目指していたこと。
榊原さんはおじいさんの影響を受けて、妖怪や幽霊、不思議な現象の探求が大好きになったこと。
今日の榊原さんのしゃべりは、全くガトリング砲ではない。僕は安心してハンバーグを食べた。それだけで三人の集まりは解散になった。
帰り道、やれやれと思いながら雨月と歩いた。
「榊原さんは心配するほどのことがなかったね」
「榊原は全く諦めていないと思ったが?」
「そう? 僕には諦めたように見えたけどな」
「あの手の人間は……春人! 俺から離れるな。妖だ」
「えっ? うわっ!」
言われて見回すと、僕の周囲に大小さまざまな黒いモヤモヤが集合しつつあった。
雨月は「じっとしてろよ」と言うなり僕を左腕で抱えてジャンプした。僕は悲鳴を上げないように奥歯を噛み締めた。ジャンプがとんでもなく高い。脇道に入ったところで周囲に人がいなくてよかった。
着地したのは、古くて窓ガラスがあちこち割れている二階建ての屋根の上だ。見える範囲でこの家に電気はついていない。
雨月は僕を屋根の上に下ろすと、追ってきた黒いものを次々に斬った。斬られた瞬間だけ、悲鳴が聞こえる。声が生々しくてキモい。キモ過ぎる。
雨月は十数体の妖を全部消してから「さ、帰るぞ」と言うんだけど、僕は腰が抜けていた。
「歩けないか。背負ってやろう」
「い、いや、さすがにおんぶは目立つよ。少し休ませて。それから歩く」
「そうか。この家は空き家だろうから、お前が静かにしていれば騒ぎにはならん」
「ねえ雨月、やっぱりあの妖たちは僕を狙って集まったの?」
「そうだ。春人の精気は、奴らにとってえも言われぬ魅力があるからな」
「魅力……」
「お前のことは俺が守る。安心しろ。あんな妖どもに春人を襲わせはしない」
全くもって遅すぎたけれど、僕はやっと血の契りの意味を完全に理解した。
付喪神は僕のような主を持てば、人と同じく自由に動き、食べ、景色を眺め、生きることを楽しめる。その代わりに主を守る。主は精気を吸おうと寄ってくる妖から守ってもらえる。血の契りはそのための契約ってことだ。
『オラも守る! オラも主を守るから! オラを僕にしてくれよぉ!』
はっきり聞こえた。若い男の声だ。
「雨月、今の聞いた?」
「チッ! 帰るぞ。歩けないならお前を抱いて屋根を跳び移りながら帰る」
『オラを置いて行かないで! お願いですから!』
この声、斧か? 斧だよね? 雨月を見上げると、すごく苦々しそうな顔をしている。
「雨月、血の契りを交わさなくても斧の声が聞こえるよ! 斧に会わせてほしい。主として命じる」
「クッ。お前、俺がお前の命令に逆らえないことに気づいたのか」
「うん。気がついた」
渋い顔のまま雨月が僕を抱き上げ、空き家の裏手に飛び降りた。全く音もしないし衝撃もない着地だった。
雨月は木造の家の壁に向かって刀を両手で持ち、右斜め下、左斜め下、真横、と三回刀を振った。壁を斬ったの? 壁って、日本刀で斬れるものなの?
雨月がその部分に手を当てて押すと、壁は内部にずれ落ちた。ドシャッと結構大きい音がして、僕らの前には逆三角形の大きな穴ができた。雨月がそこから中に入っていく。雨月から離れるのは怖いから、すぐ後ろを僕も続く。さっきの音、どうか誰にも気づかれていませんように。
雨月は斧の場所がわかるらしく、暗い家の中を大股で進む。
『ありがてえ! ありがてえ! 主が迎えに来てくださった!』
「黙れ」
『すみません、つい嬉しくて。オラはここ、ここです!』
「おい! もう一度騒いだら、お前を叩き斬る」
若い男の声がピタリと止まった。雨月がボロボロの襖を開けた。
納戸らしき狭い部屋には何もないような。雨月は奥まで足を進めて、棚の陰から紙で包まれた長細いものを片手で持ち上げた。
『兄貴、ありがとうございます!』
「人の気配が近づいてくる。春人、急いで帰るぞ」
僕の返事も待たず。雨月は右手に斧の包み、左腕に僕を抱えて暗い家の中を走って外に出た。
三角の穴から外に出た僕の口から、「ヒュッ」と変な音が出た。
そこに、笑顔の榊原さんが立っていた。
(4月2日)木曜




