10 長い夜
待ち受けていた榊原さんは、とても楽しそうだ。
「驚きましたよ。統神君は真面目でおとなしい人だと思っていたのに」
「榊原さん! これには訳があって……」
「壁に穴を開けたら建造物損壊罪、空き家でも勝手に中に入ったら邸宅侵入罪、中の品物を持ち出したら窃盗罪です」
「違うんです、これは……」
「違いません。私が通報すれば、雨月さんと統神君は警察に逮捕されます」
雨月が僕を地面に下ろした。僕は今まで雨月に抱えられたまま、間抜けな状態で話をしていた。
「あんたはそう言いつつ通報しないでここで話をしている。通報しない理由があるんだろう?」
「雨月さんは察しがいいですね」
「もったいぶらずに要求を言え」
空気が痛いほどピリついている。どうしよう。ここは主の僕がなんとかしなきゃ。
「あの、榊原さん、まずは話し合いましょう」
「春人、何なら俺が……」
『いんや、ここはオラがこの細っこいのを二つに叩き斬って……」
絶対にだめ!
「榊原さん、うちに来てゆっくり話をしませんか。美味しいプリンがあります」
雨月が「えっ」という顔で僕を見た。雨月の分はちゃんとあるから、安心してほしい。
何気ないおしゃべりの時、雨月が「昔一度だけ食べたプリンが美味しかった」と言っていたから作って冷やしてある。雨月は楽しみにしていたから、自分の分を分け与えてしまうのかと慌てたみたい。案外可愛いな。
結局、榊原さんが僕の部屋へ来ることになった。
「へえ、統神君はきれい好きだろうとは思ってたいましたが、部屋が整頓されていますね」
「お世辞はいりませんので。はい、プリン。紅茶と緑茶、どっちがいいですか?」
「緑茶で。そんなに警戒しないでくださいよ。通報はしません。実はあの家、来週には取り壊されるんです。地域安全課の私が言うんだから本当です。厳密に言えばそれでもあれは犯罪ですけど、君たちが逮捕されても誰も得をしませんしね」
榊原さんはそう言って僕たちと一緒にプリンを食べた。「これは美味しい。このくらい硬いのが好きなんです」と顔をほころばせている。
このまま、なあなあな感じで丸め込めるか? と思ったけどそうはいかなかった。
「空き家から持ち出したそれは、なんですか?」
「これは……斧です」
「斧ですか。私が見ても?」
僕はうなずいて斧を縛ってある紐を解き、新聞紙と油紙を剥がした。始めて見る伐採斧は全く錆びていなかった。伐採斧には一切の無駄がなく、機能美があった。
斧の全長は九十センチほど、刃渡りは十五センチくらいか。刃先が想像よりずっと薄い。雨月が斧頭と呼んでいたヘッドの重さは、持った感じで二キロを超えている。
榊原さんが僕の隣にしゃがんで斧を覗き込んだ。
「見たところ普通の斧ですねえ。もっと謂れがありそうな禍々しい斧だったら面白かったのに。それと、あの壁はどうやって穴を開けたんですか?」
うおっ? この人は雨月が壁を斬るところは見ていないのか! ラッキーだったね、雨月。
「最初から穴が開いていたんです。肝試しみたいな気持ちで中に入ったことは、深く反省しています」
「ふうん。私は食後の散歩であの家を見に行ったんです。もうすぐ取り壊しだなあって。そうしたらあんな穴が開いてるし物音がするから様子を見ていました。まさかあなたたちが出てくるとはね」
「本当に申し訳ありませんでした! このようなことは二度としません。この斧も戻しますので」
『嫌だ! オラを戻さないでください!』
僕は必死に斧の声が聞こえないふりをした。榊原さんには聞こえないだろうけど、緊張する。雨月は無表情に天井を見ている。
「あの家、もう長い年月、持ち主を見つけられないままなんです。放火されたり崩れたりする前に取り壊すことが決まっていましてね。家の中にはもう何もないと思っていましたが、斧があったんですね。その斧を元に戻したところで、瓦礫と一緒に処分されるだけです」
『いやだぁ、オラ、いやだよぉ。せっかく付喪神になれたのに、やっと主に会えたのに、ゴミと一緒に埋められるのはいやだぁ』
「私は何も見なかった。あの家の近くで君たちとたまたま出会っただけです。では帰ります。プリン、美味しかったです。ご馳走様でした」
榊原さんは帰ったが、納得してくれたのだろうか。あの場に居合わせたのも、本当に偶然なんだろうか。
「俺は納得していないと見たが」
「やっぱり? 僕もそんな気がするんだよね。雨月は僕以外の人の気持ちは読めないんだね」
「そんなにあれこれできてたまるか」
「そりゃそうか。妖を退治してくれるだけでありがたいよ」
台所で緑茶を淹れた。
「はあ、なんか疲れたよ」
「神札を授かり損ねたな。授与所が閉まるのは早い」
「明日にしよう。今日はもう、お風呂に入ってさっさと寝たい」
「では俺が風呂の用意をしよう」
僕が「ありがとう」と言ってベッドにダイブしたら、斧が気弱な声を出した。
『あのう、オラのことを忘れていませんか』
「忘れてはいないよ。瓦礫と一緒に埋められなくてよかったね。僕はまだ、君と血の契りを交わすかどうかを決めてない。だから、今はこのままでいいかな」
『もちろんです。オラは主のおそばにいられるだけでも嬉しいです』
戻ってきた雨月が斧に向かって言葉を放った。
「お前の主ではない。俺の主だ」
「雨月、ちょっと意地悪だよ?」
そんなやり取りをしてから湯に浸かった。
斧をどうしたものか。さすがに瓦礫と一緒に埋められるのは可哀想だけど、この部屋にもう一人の大男、それも一生か……。ためらう状況ではある。でもなぁ……。
雨月と暮らしてみて、僕はすごく楽しい。料理をする張り合いができたし、ちょっとした言葉のやり取りをする相手がいる幸せを知ってしまった。そのせいで今まで自分が寂しかったことを自覚したのは、地味に堪えるものがあったな。
斧、どうしようかなあ。
斧は何歳くらいの外見で、どんな顔立ちで、どんな性格なんだろう。
自分のことを「オラ」って言ってる。オラなんて言う人、見たことない。人じゃなくて斧だけど。
全身を洗ってバスタオルを腰に巻いて浴室を出たら、雨月が交代で入る。二人で湯上りの冷たい炭酸水を飲んだ。雨月が床に横たわっている斧に話しかけた。
「斧よ、お前の名は?」
『名前はありません。オラ、大切にしてもらってましたけど、主を持ったことがないもんで』
「そうか」
『兄貴のお名前を教えてもらえますか』
「俺の名は雨月迅雷丸宗親だ。そしてお前の兄ではない」
斧はきっと、『名前があっていいなあ、羨ましいなあ。名前が欲しいなあ』と思っていることだろう。
血の契りを結ぶかどうかの権限が僕にあるから、余計に斧の気持ちが気になる。
この状況は純朴そうな斧を仲間外れにしているみたいで、僕の性格に合わない。
なんだか今夜は眠るまでの時間が長い。
(4月2日)木曜日




