59 待っていてくれなんて言わないでほしかった
いつもの時間に起きて朝食を作っていたら、雨月が「すまなかった」と唐突に言う。
「やっぱり雨月は怒ってたよね?」
「春人に対してではないが、腹を立てていた。俺としたことが八つ当たりをしてしまった」
「まあ、いいけど。いったいどうしたの? ちゃんと説明してよ」
立ったまましていい話じゃない気がして、僕と雨月は向かい合って座った。千歳は空気を呼んだらしく、朧を抱えてベッドに座った。
「俺は以前、主従関係を解消するには付喪神を壊すしかないと話した。だが、もうひとつの方法がある。主と付喪神の間に距離を置き、付喪神が元の道具に戻ったらそのままにしておくことだ」
「主従関係を結んだまま、手放すってこと?」
「そうだ。青島孝右衛門がそれをした。俺が青島の子孫に会ってみようと思ったのは、あの若者がそれを知っているのか確かめたかったからだ。もし孝右衛門が少しでも俺にしたことを後悔したなら、子孫に伝えているかもしれないと……愚かにも期待した」
そこから雨月は青島孝右衛門に何をされたか語ってくれた。
青島孝右衛門は二十代で付喪神使いの祖父から雨月を引き継ぎ、翌年に江戸詰めの御国記録方に選ばれた。
雨月が付喪神であることを孝右衛門の祖父は隠していたから、孝右衛門も雨月の正体を伏せていた。だから長州藩の江戸屋敷に連れていってもらうことはなく、二人で外を歩くこともなかった。
統神の家で集落の人たちに受け入れられ、敬愛されていたのとは全く違っていたわけだ。
雨月は正体を隠されたまま、孝右衛門が五十の歳まで円満な主従関係にあった。肖像画を描いてもらうほどに。
ところがある日、囲碁仲間の老中が孝右衛門の家を突然訪れ、案内も乞わずにずかずかと奥に入った。孝右衛門は雨月の刀身の手入れをしていて、家人の慌てる声を聞いて雨月をしまおうとしたが間に合わなかった。
「孝右衛門、天神屋の上菓子を持ってきたぞ。お前は甘いものが……。おい、それはお前の刀か?」
そこから話が始まった。「その刀を公方様に献上しろ」という話である。
当時の将軍が刀に興味があったため、各藩から名刀の献上が相次いだ。そんな中、刀の目利きでもある長州藩の老中が雨月に目をつけた。孝右衛門は逆らえずに献上の話を受け入れた。
老中が帰ったあと孝右衛門は雨月に、「必ずお前を迎えに行く。公方様の興味が薄れてお前の存在を忘れるまでは堪えて待っていてくれ。なんとかして俺がお前と他の刀を交換してもらえるよう、話をつける」と説得した。
「だが孝右衛門は口ではそう言ったものの、腹の中では『これは面倒なことになった』と思っていた。俺が自分の考えを読んでいるとは知らなかったのだ。孝右衛門は俺を献上すると、すぐに国元へと帰った」
「なんで?」
「妖も同然の付喪神の俺を将軍に献上したと知られれば、孝右衛門の首だけでは済まないからだ。俺が絶対に人の姿になれないよう、孝右衛門は体調不良を訴えて国に帰ってしまった」
それでも雨月は孝右衛門の言葉を信じる気持ちのほうが強く、刀置き場の片隅でずっと孝右衛門を待ち続けた。
でも十五年が過ぎたある日、雨月は孝右衛門が息を引き取るのを感じ取ったという。
「十五年など、俺にとっては本来短い時間だ。だが孝右衛門を待つ十五年は長かった」
「雨月……」
「孝右衛門は俺を生涯自分のそばに置いておくと言ったことを、なかったことにした。それなのに記録には『家族よりも大切にした近習がいた』などと書かれていた。都合がいいところだけを周囲に話して聞かせていたのだ」
「そういうことか」
「俺を迎えに来る気など最初からなかったのだと、孝右衛門が息を引き取ってやっと納得した。臨終の際に、孝右衛門は俺を思い出さなかった。遠く離れていても、それだけはわかった」
雨月が可哀想で、孝右衛門に怒りが湧き上がった。
「そんな主だったなら、あの子孫にも会わなければよかったのに!」
「春人は本気で俺と青島を会わせたがっていたではないか。他の主の子孫に会わせようとする春人が、俺には理解できなかった」
「だって僕はひよっこ主で、以前の主の話ができたら雨月が懐かしいだろう、嬉しいだろうと思ったんだよ」
雨月が優しい感じに苦笑した。
「それは春人の心を読んだから知っている。だが俺の今の主は春人で、俺が一番大切に思うのも、守りたいと思うのも、お前だ。春人はなぜいつまでも……」
そこで雨月が口を閉じた。それから僕を見て、深々とため息をついた。
「俺が何度もひよっこ主などと言うからだな。そして青島秀輝と会った後、おれは春人に八つ当たりをした。怒っていないと言いながら、孝右衛門に腹を立てていた。俺が悪い。すまなかった」
「えっ、いいよ、頭を下げたりしないでよ」
雨月は立ち上がって深々と頭を下げている。
僕はいたたまれなくて、「いいから、頭を上げて」と言ってから窓の外に目を向けた。たくさんのビルとたくさんの灯りを眺めながら、気持ちを伝えるのは難しいなと思う。
「八つ当たりなど愚かなことだと思っていたのに、最近の俺は妙に人間じみた感情を持つようになった。俺は春人に『昔の主の子孫になどに会う必要がない』と言い切ってほしかった。まるで子供のようだ。愚かだった」
「僕こそごめん。雨月はあのとき僕を止めたのに無視した。はぁぁ。ねえ、コーヒーを飲む?」
「いただこう」
「千歳は?」
「オラは牛乳と半々で飲みたいです」
三人でコーヒーを飲みながら黙り込んだ。壁に掛けられた時計のカチカチいう音がはっきり聞こえる。僕は雨月が気の毒でたまらなかった。
「主を待つ十五年は長かったね。千年以上も続く命を持っていたとしても、やっぱり長いよ」
「今際の際に俺を思い出さなかったとわかったとき、俺は初めて人間に絶望した。俺を捨てるつもりなら、待っていろなどと言う必要はなかったのだ。お前を捨てると言ってほしかった」
「そうは言えなかったんだよ、きっと」
「そうだろうな。今ならそう思える。孝右衛門は落ち着いた人間だと思っていたが、俺に本当のことを言えない程度には気が小さかったのだ」
将軍様の怒りを買ってしまったら、自分だけの問題じゃ済まないしね。
統神の先祖は雨月を手放さなかった。何代にもわたって雨月を大切にしてきた。それはたまたま幸運だったおかげだとしても、本当によかった。
「そうだな。統神の家にたどり着けて、よかった」
カフェオレを飲んでいた千歳がぽつりと「オラ、腹がすきました」とつぶやいた。朧も「ぷぎっ」と鳴く。
「ほっとしたら僕もおなかが空いたよ。お茶漬けでも食べる? 鮭茶漬けと明太茶漬けならお茶漬けの素がある」
「オラ、鮭茶漬けがいいです!」
「じゃあ僕は明太茶漬けにしよう。雨月はどうする?」
「飯に山葵と醤油、そこに鰹節を落としてくれるか。いや、自分で作ろう」
「いいよ、僕が作る。山葵とお醤油か。通だね」
三人で夜食を食べていたら、またちょっと泣きそうになった。このクールな雨月が、刀置き場で十五年も主を待っていたのかと思ったら切なくて。
「また泣くのか」
「まだ泣いてない。雨月が気の毒で泣きそうなだけ」
「将軍が代替わりした際に、俺は江戸城で務める侍に下げ渡された。付喪神使いではない男だったが、大切にされた。だがその侍の孫の代になってその家に不始末があって家が潰され、俺は再び別の人間の持ち物になった。そこに百鬼伏がいた」
「そういう出会いだったんだね。百鬼伏って、どんな付喪神なの?」
少し間があって、雨月が真顔で僕を見た。
「心底悪い奴ではないのだが、あれは嘘をつくことを何とも思っていない。いつかあいつと話をする機会があっても、用心したほうがいい」
「うん、わかった」
お茶漬けを食べたら眠くなった。
ベッドの中で思った。雨月はそんなことがあっても、また人間を……少なくとも僕のことは信じることにしたんだね。
6月28日(日)のできごと。




