57 宇藤正明
春人の寝顔を眺めながら、雨月は「あのこと」は言わないでおこうと考えている。「あのこと」とは、宇藤という男が付喪神使いで、今現在なにかの付喪神を僕にしていることだ。
僕が何の付喪神かはわからないが、魂緒は春人と自分のものより太かった。主従関係はそこそこ長いようだ。
宇藤の付喪神は小さな品らしく、服の下の腹のあたりに収められていた。だから春人は魂緒を見逃したのだろう。
『なんで兄貴は黒鉄に言わなかったんです? お前の隣にいる男は付喪神使いだぞって言えば、あんな揉め事にはならなかったんじゃねえですか?』
『宇藤はそれを隠していたんだぞ? 俺がそれを言って春人が恨まれたら困る』
『兄貴がバラしても春人さんが恨まれるんですか?』
『ああ。八つ当たりと逆恨みは、人間の性みたいなものだからな」
『そういうもんですか……。覚えておきます』
人間は頭でわかっていても納得できなくて、八つ当たりや逆恨みをする。区役所で窓口業務をしている春人がいきなり襲われたら、守りたくても間に合わない場合もある。雨月は普段からそれを恐れていた。
百鬼伏も宇藤が付喪神使いだと気づいているはず。だがあの場でその話を持ち出さなかった。百鬼伏の性格では、あの場の誰かに配慮していたとは思えない。単に宇藤の僕になりたくないのだろうと思った。
宇藤は影の薄い静かな男だったが、あの黒鉄の秘書を務めているのなら優秀なはずだ。ただおとなしいだけの男ではないはずである。
『兄貴、宇藤の僕はなんですかね』
『さあな。俺は興味がない。非力な僕としかわからん。宇藤が今後、春人に関わることがなければ俺はそれでいい』
『オラには宇藤が気の小さい、おとなしい男にしか見えませんでした』
少し間が空いてから雨月が千歳に言い聞かせた。
『何も言わないのと何も考えていないのは同じではない。口数が少なくて従順そうな人間が、腹の中で強い怒りを抱えていることは珍しくないのだ。宇藤がそうかどうかは知らん。千歳よ、お前の周囲にはさっぱりした人間が多かったのだろうな』
『はい。木こりはさっぱりした性格の人間が多かったように思います』
『お前は……人間に絶望することがないまま、ここまで来たんだな』
雨月のつぶやきには苦いものが滲んでいる気がして、千歳は何も言えなかった。
◇
宇藤正明は黒鉄福次を料亭から自宅まで送り届け、行きつけの喫茶店でしばらく息抜きをしてから自宅に戻った。今日は気の張る一日だった。
「お父さん、おかえりなさい」
「まだ起きていたのか。無理して体を壊すなよ」
「うん、もう少ししたら寝るよ」
宇藤の一人息子の圭は高校二年生だ。受験勉強をまじめに頑張っている愛すべき息子である。
宇藤は妻が温めてくれたカレーを食べた。
「君の作るカレーが一番美味しいよ。どんな有名店で食べるカレーより美味しい」
「ふふっ。カレールウを使っているのに、あなたはいつもそう言うわね」
市販のルウを使っていても、ニンニクと生姜を摺り下ろして入れてある。その分量は宇藤の好みに合わせてあった。長い結婚生活の中で、妻が宇藤の食べっぷりを見ながら試行錯誤してくれた結果だ。
カレーを食べ始めたら、今日の疲れがどっと出てきた。
今日、付喪神たちと顔を合わせるのは冷や汗ものだった。
もしあの場で「その男を百鬼伏の主にすればいい」と雨月に言われたら終わりだと思っていた。
自分が付喪神使いだと黒鉄に知られれば、百鬼伏の主になれと言われただろう。その上で、今までなぜそれを隠していたと激怒されるに決まっている。
雨月という美しい付喪神は、宇藤が付喪神使いだと気づいていたように思う。
黒鉄が榊原に話をしている間も、統神春人に百鬼伏の主になれと要求している間も、雨月はずっと宇藤を見ていた。
その視線は、宇藤が腹巻の中に大切にしまい込んでいる僕に向けられていた気がする。
カレーを食べ終え、書斎に入ってドアに鍵をかけた。それから服を脱いで、腹巻から僕を取り出した。
宇藤の僕は亀の形をした『水滴』の付喪神だ。
水滴は毛筆を使う際に、墨の濃さを調節する小さな容器だ。亀の鼻先から尻尾の先までがちょうど二寸の陶器で、甲羅のてっぺんと口に穴が開いている。亀の腹の部分に水を入れて使う。
この水滴の付喪神の名前は日向。祖父と父がそう呼んでいたから宇藤も日向と呼んでいる。
宇藤は日向の最初の主だ。日向は椅子の上に置かれると、一瞬で人の姿になった。
日向は二十歳くらいの若者の姿で、おとなしそうな顔立ちをしている。本体の水滴は大正時代に作られたそうで、書道の先生をしていた曽祖父の持ち物だった。
曽祖父の形見として祖父、父、宇藤正明の三代にわたって大切にされていたが、十年前のある夜にその水滴が人の姿になった。
宇藤が書類で指を切り、滲んだ血を拭こうとしてティッシュの箱に手を伸ばした際に、机の上に置かれていた水滴に血がついた。
目の前に突然現れた若者を見て宇藤は死ぬほど驚き、声も出せなかった。そしてその若者の顔には見覚えがあった。
「長い間大切にしていただいて、ありがとうございます。おかげさまで、僕は付喪神になれました」
「え……」
その先の言葉が出ない宇藤に、日向は根気強く何が起きたのかを説明してくれた。
日向に教えを乞うような形で、宇藤は付喪神使いと付喪神の世界を理解した。
自分にそんな力があったことは初耳だったが、祖父が好んでそんな話をしていたように思う。だがその話を聞いていたのが幼稚園か小学校低学年の頃のことだから、宇藤の記憶は曖昧だ。
日向が「非力な身ではありますが、僕として主様にお仕えします。外に出かける際は、僕を一緒に連れていってください」と言った。だから宇藤は翌日から、日向を腹巻の中に入れて出勤した。腹が弱い宇藤は、昔から腹巻を愛用していた。
宇藤が十年前に付喪神使いになったときにはもう、百鬼伏は黒鉄の家にあった。宇藤は付喪神使いの力が弱いため、百鬼伏の声を聞けない。だが日向は百鬼伏と会話ができた。
日向は、平安末期に生み出されたという百鬼伏に心酔している。日本刀の付喪神というところにも憧れがあるらしい。付喪神に関する知識が豊富な百鬼伏の話を受け売りする形で、様々な情報を宇藤に教えてくれた。
「百鬼伏さんが言ってましたけど、主様は付喪神使いの力が、その、少ないから、気をつけたほうがいいそうです」
「気をつけるとは?」
「強い付喪神を僕にした場合、その付喪神が主様の言うことを聞かずに勝手な振る舞いをすることがあるそうです」
「強い付喪神っていうのは百鬼伏みたいな付喪神のことかい?」
「だと思います」
「なるほど、そうなんだね」
それは真実ではなかった。
血の契りを交わせば、百鬼伏のような強い付喪神でも主の命令には従わざるを得ない。百鬼伏はごく弱い力しか持っていない宇藤が主になるのを嫌って、日向に嘘を吹き込んでいた。百鬼伏はそういう付喪神だった。
嘘とは知らない宇藤は百鬼伏が自分に逆らって暴れ回ることを想像し、百鬼伏と関わることを恐れた。だから黒鉄福次には自分の能力のことを隠している。
今日の会食の場では、百鬼伏が雨月に自分のことを告げ口するのではないかと怯えていたし、雨月が自分の正体を見抜くことも恐れていた。
だが幸いなことに、自分のことは全く話題にならなかった。
「私はね、日向がそばにいてくれたらそれで満足なんだよ」
「僕もです、主様。僕も主様と一緒にのんびり暮らせて、美味しいものを食べられて、たまにお散歩に連れて行ってもらえたら、それで十分すぎるほど幸せです。今日行った喫茶店のチーズトースト、美味しかったです!」
「そうかそうか。日向はいい子だなぁ」
宇藤に褒められて、日向は微笑んだ。
日向の顔は、実家の鴨居に掲げられている宇藤の弟の遺影にそっくりだ。日向が人の姿で現れた時、そのことに一番驚いた。
宇藤は日向を僕としてではなく、本当の弟のように大切にして可愛がっている。
黒鉄会長には、もう付喪神を諦めてもらいたかった。万が一日向のことと自分の力のことを知られて百鬼伏の主になれと言われたら、黒鉄の秘書を辞めてもいいとさえ思っている。
息子の教育費はまだまだかかるけれど、今までの蓄えがある。仕事をえり好みしなければ、大学の費用はなんとかなるのだ。
宇藤は日向に美味しいものを食べさせ、たまに二人で出かけ、日向が笑ってくれることを楽しみにしている。弟は十六で病を発症し、恋人を作ることもなくつらい治療に耐えていた。そして皆が当然のように享受している数多の楽しみを知らずにこの世を去った。
日向を見ていると弟が生き返ったようで、宇藤は胸がいっぱいになる。日向が笑うと弟が笑っているように見えた。
本当なら日向を妻と息子にも紹介したいが、日向の顔が宇藤に似ているだけに隠し子と疑われそうで勇気が出ない。付喪神であることを明かすのも恐ろしい。宇藤は妻に嫌われたくないのだ。付喪神使いであることを気持ち悪がられて離婚なんてされたら、この世の終わりだと思っている。
日向について説得力のある嘘を思いつけないことが、宇藤の悩みである。
6月20日(土)のできごと。
「水滴 書道 亀」で検索すると実物の画像が出てきます。




