56 懐石料理と立ち食い蕎麦
宇藤と呼ばれた男性が、日本刀を黒鉄さんに差し出した。
黒鉄さんは左手で鞘を握って、宇藤さんが手早く料理を片付けた場所にそっと百鬼伏を置いた。
黒鉄さんが鞘から刀身を抜くと同時に雨月が立ち上がり、千歳はすごい勢いで僕を抱えて立たせ、僕と黒鉄さんの間に立った。
雨月が聞いたこともないような怖い声を出した。
「何をするつもりだ」
「私は統神君と話をしている。雨月と言ったか、お前は下がっていなさい」
その言葉を聞いて、一瞬で頭に血が上った。僕の雨月に向かって、この人はなんでそんなに偉そうなんだ?
(すぐに立ち去ろう)
そう決めたところへ別の声が頭の中に聞こえた。
『見苦しいわなぁ。このじいさん、俺に聞こえていた話じゃ、心臓、腎臓、肝臓、膵臓にガタがきているそうだ。だから少しでも長生きしたくて必死なんだろう』
黒鉄さんには聞こえない百鬼伏の声だ。
付喪神を自分の近くに置いたところで健康になるわけじゃないのに。この人、付喪神のことをたいしてわかっていないのかな。
「どうかね、統神君。君が百鬼伏の主になり私の秘書になってくれるなら、区役所の職員では一生見ることがない額を契約金として支払おう。君は私のそばにいてくれるだけでいいんだ。いい話だとは思わないかね」
「思いません。そういうお話でしたらこれで失礼します」
「待ちなさい!」
待つ理由はない。
僕は立ち上がり、廊下に出ようとした。僕の斜め後ろに続いた雨月が振り返って、「お前にひとつ教えておこう」と言う。
「お前は勘違いをしている。俺と百鬼伏は刀で、こいつは斧だ。刀や斧を抱え込んだところで、お前が長生きできるわけではない」
「そんなことは知っている! 私は人生の終わりに付喪神の主になりたいだけだ。これは誰も不幸にしない、いい話だろうが!」
「ふっ。欲しいものを次々と手に入れて、どうしても手に入らなかったものが欲しくなったか。だが……」
雨月が氷のような微笑みを黒鉄さんに向けた。僕は雨月に好きなように言わせることにして、口を閉じている。
「お前が春人を従えたとしても、俺たちはお前の僕にはならない。お前と春人に車が突っ込んできたら、俺たちは春人を助ける。それでもまだ余裕があったらお前を助けてやらんでもない。そういうことだ」
「なっ……」
「百鬼伏ならなおさらだ。主でもないお前のためには動かない。そいつはそういう性格だ」
『ははっ! さすがは雨月。よくわかってんなあ』
百鬼伏が笑い声をあげた。「では失礼します」と言って僕は廊下に出た。もしかしてガタイのいい男たちが待ち構えていて無理やり血の契りを結ばされるのか? と怯える気持ちもあったけれど、そんなことにはならなかった。もっとも、そうなったとしても雨月と千歳が僕を守ってくれただろう。
仲居さんたちが僕たちを見てオロオロしていたのは申し訳なかったが、さっさと靴を履いて外に出た。
ムカムカしながら歩きつつも、百鬼伏の気持ちを考えてしまう。
彼だって人の姿をして暮らしたかっただろう。気の毒なことをしたとは思うけど仕方ない。あんな状態で血の契りを交わすわけにはいかないよ。
「春人が気にすることはない。我らには人間から見れば永久にも思える時間がある。百鬼伏とて、いずれは主を得て人の姿になる日が来る」
「うん、そうだよね」
「そして百鬼伏は春人の対応を恨んだりしない。大雑把なやつだからな」
「そこは大らかと言ってあげて」
大雑把な付喪神か。それはそれで人となった姿を見てみたかったような。
ま、今回は縁がなかった。これで終わりだ。
ここまでずっと無言だった榊原さんが「統神君」と言って僕の肩に手を置いた。
「はい?」
「大金を提示されても揺るがない、統神君の態度に感心しました。付喪神使いとしてのプライドですね」
「そんな大げさなことでは……。あの人が雨月に対して主みたいな口調だったので、腹が立っただけです」
「私は翔のことを思いました。あの子にも同じようなことが起きないとも限らない。うちの母が事情の分からないまま相手に取り込まれたりしないよう、帰ったら小鈴さんのことをはっきりさせようと思いました」
「それは……確かにそうかもしれませんね」
途中で榊原さんと分かれて歩いていても、まだむかっ腹が収まらない。
「あのう、春人さん、オラ、小腹が空いています」
「あ、そうだね、食事の途中で席を立ったもんね。何か軽く食べようか。あそこに立ち食い蕎麦の店があるよ。入る?」
「はい! 入りてえです」
立ち食い蕎麦店に入り、僕はかき揚げ蕎麦、千歳は竹輪天蕎麦、雨月は紅生姜天蕎麦を頼んだ。
あっという間に提供された蕎麦のつゆをひと口飲んで、「はああ」と息を吐いた。懐石料理もいいけど、立ち食い蕎麦には立ち食い蕎麦ならではの美味しさがあるよ。
蕎麦をすすりながら、ふと思う。もしかして黒鉄福次ほどの大物なら、区役所の上のほうの人に圧力をかけて僕を強引に秘書にすることができるのだろうか。……いや、ないな。民間の会社ならともかく、区役所だし。
「今、椿にそれを聞いてみた。椿が透子に伝えておく、と言っている」
「いつもながら雨月は仕事が早いね」
「俺は春人のためにこの世にいるのだから、当然だ」
カウンターの中にいるお兄さんが、蕎麦の湯切りをしながら僕たちをチラリと見た。
雨月、今のセリフは誤解されるからね?
雨月は知らん顔をしているが、千歳はクスクス笑って「兄貴は春人さんが大好きですもんね」と余計なことを言う。雨月が珍しく「はっはっは」と声を上げて笑い、ここまでずっとおとなしかった朧が、雨月の足元でこぼれ落ちた気持ちを食べた。
朧の色は変わらなかった。
6月20日(土)のできごと。




