52 翔と加藤
翌日、登校した翔が自分の席に着くと、加藤がじっと翔を見てきた。今までは視線を感じると極力視線を合わせないようにしていたが、今日は加藤の視線をまっすぐ受け止めた。その上で「なに?」と口を動かすと、意外なことに加藤のほうが視線を逸らした。その背部には、今日も三匹の妖が張りついている。
授業が始まった。翔にとってはわかっていることばかりで退屈だが、真面目に聞いている。それについては小学校に入るとき、兄の清隆から助言されていた。
「お兄ちゃんは授業が退屈なとき、自分がやりたい勉強をやってた。参考書を持ち込んで自主学習をしたんだよ。それは先生にとってとても失礼なことで、嫌われるし叱られて時間を無駄にする。翔は同じ失敗をしないようにね」
翔は自主学習をするつもりはなかったし、先生に嫌われて学校に居づらくなるのもごめんだった。
真面目に授業を聞いていい成績を取っていれば、先生に好印象を持たれることを経験で学んでいる。
だが、いい成績がいい人間関係を作るわけではないことも経験で学んだ。
小学校では、運動のできる子がヒエラルキーの上に立つ。
それについても兄は真顔で、「そんなのは小学校までだよ。私立中に入ればそういう子はいなくなる。運動ができて勉強もできる子はいるけどな。私立中で成績がいいと空気が旨いぞ」とあからさまなことを言っていた。
午前の授業が終わり給食も終えてから、翔は加藤に近づいた。
加藤は昼休みにいつもサッカーをする。加藤の仲間が近づいてくる翔に気づき、加藤に何かささやいた。加藤が剣のある表情で口を開いた。
「なんだよ」
「加藤君に話があるんだ」
「俺はない。さ、サッカー行こうぜ」
加藤は仲間を引き連れ、翔を無視して校庭へ行ってしまった。
緊張で手汗をかいていた翔は、諦めて自分の席に戻る。透子や春人、兄の言葉を思い出して、自分はどうすべきなのか、もう一度考えた。
とりあえず心を落ち着かせるために図書室に行こうと渡り廊下を歩いていると、サッカーをしている加藤が見えた。加藤がボールに足を置いて仲間に何か怒鳴っていて、みんながしょんぼりと立ち尽くしている。そして、加藤の周囲には小さな妖が何匹も飛び回っていた。
その光景に、翔は思わず目をつぶってしまう。春人の田舎で見た、誠一郎の姿を思い出したのだ。妖が何重にも群がって、大きな球のようになっていた誠一郎。それを見て「なんと哀れな」と泣いた松千代の顔も甦る。
「やっぱり、知らん顔なんてできないよ」
そうつぶやいて、翔は図書室の窓際の席から加藤の姿を目で追った。
加藤の周囲をヒラヒラと飛んでいた妖の一匹が、加藤の右膝に張り付いた。加藤の動きは変わらないように見える。妖が張りついている場所が痛むわけではなさそうだ。
翔は立ち上がって図鑑を手にした。もう何度も目を通したことがある人体構造図の図鑑を眺め、時間を潰した。
昼休み終了のチャイムが鳴って教室に戻ると、教室の出入り口で加藤のグループと一緒になった。
加藤は仲間たちに先を譲り、翔に向き合う。
「お前、図書室の窓から俺を見てただろ。キモいんだよ」
「加藤君、首の後ろと右肩と背中の真ん中に、痛みはないの?」
はっきりと加藤の顔に驚きが現れた。
「今度は変なものが見えるのか? キモッ。そんなにかまってほしいのかよ」
「見えるよ。加藤君の体に三匹の黒いものがくっついてる。それにさっき、右膝にも新しいのが一匹くっついた」
「うるせえ! 嘘をつくな!」
「なんで怒鳴るの? もしかして僕のこと、怖いの?」
わざと挑発した。
加藤が顔を歪めながら翔の両肩を突き飛ばし、翔は結構な勢いで尻もちをついた。肉の薄い尻がもろに床に衝突して、ズンと響くような痛みが走る。
教室や廊下で二人を見ていた女子から「きゃあっ!」という悲鳴が上がった。「痛い……」とつぶやいた翔と女子たちを忙しく見て、加藤は動揺している。
「何をやっているの!」
担任の声だ。慌てている加藤とお尻に手を当てて床に転がったままの翔を見て、担任が「榊原君、大丈夫? 立てる?」と翔の顔を覗き込んだ。
「痛い……です」
「先生につかまって。保健室へ行きましょう。加藤君も来なさい」
加藤が自分を見ているのを承知していたが、翔は加藤を見なかった。そのまま保健室へ行ったが、保健室の養護教諭はいなかった。
「そうだった、今日は保健室の先生がお休みだった。病院へ行こうか」
「そこまでではないので大丈夫です。少し休んだら教室に戻ります」
「そう? それで、何があったの?」
担任は質問してきたが、加藤は無言。翔も答えなかった。ただ、「加藤君と二人で話をしたいです。それから先生にもお話します」とだけ告げて、担任の判断を待った。担任は翔と加藤を見て考えている。
加藤は翔を睨んでいるものの、担任の前ではおとなしい。
「先生、加藤君と二人だけにしてもらえますか?」
「喧嘩をしたばかりの君たちを二人きりにはできないわ」
「大丈夫です。加藤君が僕に手を出すことはありません。そうだよね? 加藤君」
加藤が渋々といった感じにうなずいた。
担任が何度も「加藤君、絶対に何もしないわね? 話をするだけよ?」と確認してから「廊下で待っていますね」と言って保健室を出た。
二人になると、加藤は「大げさに倒れやがって」と小声で言う。
翔は(さあ、ここからだ)と、猛烈な勢いで考えつつ話を始めた。
「僕のお尻、もう少ししたら盛大に青あざができると思う。もしかしたら尾てい骨にヒビが入ったかも」
「だからなんだよ! お前がしつこくするのが悪いんだろ!」
「同級生に暴力を振るったって、セレクションチームの監督に知られたら困るんじゃないの?」
加藤がはっきりと怯えた顔をした。
「俺を脅すのかよ!」
「加藤君の体に張り付いている悪いものを、僕に剥がさせてくれないかな。そうしたら、先生には『二人でふざけているうちに僕が転びました』って言ってあげる」
「……剥がすって何をだよ」
加藤の声にはもう、弱気が漂っている。突き飛ばされて転んだ瞬間に思いついた作戦を、翔は実行する。
「僕もやったことはないけど。試させてくれたら加藤君をかばってあげる」
「本当だな? 裏切らないな?」
「本当だよ。僕に背中を向けて」
加藤がベッドの脇で背中を向けた。翔は加藤に張りついている妖に顔を近づけた。妖の表面が脈打つように動いている。(これこそがキモいってやつだよ)と思う。
触るのも気色悪いが、腹をくくって項に張りついている妖に指をかけた。引っ張ろうとすると、妖は剥がされまいとするかのようにさらに密着した。
(えいっ!)
指先に力を入れて妖をつかむ。ひんやりと冷たい妖がメリメリと剥がれる。はがれた妖がくるりと回転して、翔の手のひらに吸い付いた。
「うわ、うわわ」
「なんだよ! どうなったんだよ!」
加藤が背中を向けたまま慌てている。
「加藤君にくっついていたヤツが、僕の手にくっついたんだ。小鈴、どうしよう」
「お任せください」
「は?」
女性の声に驚いた加藤が振り向くと、公園で会ったあの女性が立っていた。手に何か持っていて、翔の手のひらから何かを剥がすような動作をしている。加藤が「なんだよ、どういうことだよこれ」とパニックになりつつ、翔と小鈴から慌てて距離を取った。
そこで廊下から声が聞こえた。
「榊原君、もういい? 入るわよ?」
「小鈴、隠れて」
小鈴は簪になり、カタンと音を立てて床に落ちた。加藤が目と口を丸くして、床の簪を見ている。翔は急いで簪を拾い上げ、ポケットに入れた。小鈴と血の契りを結んで以来、翔は必ずポケットのついている服を選んで登校している。
「話し合いは終ったの?」
「はい。終わりました。加藤君が勘違いをして僕を押したんですが、悪気はなかったと謝ってくれました」
「加藤君、そうなの?」
「……はい」
「じゃあ、教室に戻りましょう。榊原君はどうする? 椅子に座れそう?」
「まだ痛いですけど、防災頭巾があるからたぶん座れると思います。僕も教室に戻ります」
担任の後ろを歩きながら、翔は加藤に「じゃあ放課後、昇降口で待ってるね、一緒に帰ろうよ」と若干大き目な声を出して話しかけると、加藤はそんな翔の顔を正視せず、怯えを隠さない表情で下を向いて「うん」と力なく返事をした。
6月10日(水)のできごと。




