51話 翔の迷い
週明けに翔が学校に行くと、加藤が近づいてきた。
「お前さあ、あの親戚の女に何か告げ口したの?」
「告げ口じゃない。事実を話しただけ。加藤君の名前は出してないよ」
「先生にまでしゃべったりしないよな?」
「言わない」
(加藤君は言われて困ることをしているっていう自覚はあるんだな)
加藤はプロサッカーチームのジュニアチームに入っている。それもセレクションを通過した子だけが入るチームだ。そんな加藤には取り巻きが何人もいる。
それに比べると翔は取り巻きなんていない。でも運動は苦手だが勉強はできる。どの教科も満遍なく成績がいい。どうやら加藤はそれが気に入らないらしく、答案が返されるとわざわざ翔のところまで点数を確認しに来る。
翔は(加藤君はサッカーがすごく上手いんだから、僕の点数を気にする必要はないのに)と思っていたが、ある日加藤が翔の成績を気にする理由をうっかり知ってしまう。兄と二人で、ファミレスで夕飯を食べていた時のことだ。
その日は母が絵画サークルの食事会に参加していて、翔は兄と二人でファミレスへ食事に来ていた。
清隆が「二人で分け合おう」と言って何種類も料理を頼む。兄が注文したのは翔が好きなピザ、ポテト、海老グラタン、アイスクリームだ。母と一緒のときは「食べられる分だけにしなさい」と言われている。だが兄は「二人で食べて残ったら持ち帰ればいいんだよ」と大らかなことを言う。
テーブルに並んだ好物をどれから食べようかと翔が眺めていると、背後の席から「甘いわよ!」という女性の声が聞こえた。一応声の大きさを控えてはいるが、語気の鋭さが耳に刺さる。女性の声に応じているのは男の子の声だ。
「僕はプロサッカー選手になりたい。なんでだめなの?」
「だから何度も言っているでしょう。プロのサッカー選手になって、テレビに映るような選手の後ろにはね、山のようにそこにたどり着けなかった選手がいるの。スター選手なんて、頂点も頂点。何万人もいるサッカー少年の中のほんの数人しかなれないの。裕太はそれになれると思っているの?」
「それは……わかんないけど」
「スター選手以外の注目されない選手になれたとしても、活躍できる期間は短いのよ。その先、どうやって生きていくつもり? お父さんとお母さんはいつまでも裕太を守ってあげられないんだから。楽しみでサッカーをするのはいいけど、プロ選手を目指すのはやめなさい。お父さんだって心配しているわ。裕太も榊原君ぐらい成績がよかったら安心できるんだけどねえ。あそこはお兄さんも優秀で有名だったのよね」
そこからは何も聞こえなくなった。
背後の席にいるのは、加藤裕太とその母親だった。翔は、(だから加藤君は僕の点数を気にしていたのか)と、腑に落ちた。自分の名前が引き合いに出されたのは不愉快だったし、加藤を気の毒に思った。
加藤は学校でもてはやされていても、親には認めてもらえていない。さぞかし悔しいだろうと、精神年齢の高い翔は同情した。
「どうした? お前の好物を並べたのに、元気がないな」
「お兄ちゃんは小学生のとき、やりたいことを止められたこと、ある?」
背後を気にして小声で尋ねる翔に、清隆は鋭く気がついた。そして翔よりも小声になり、身を乗り出して尋ねる。
「止められたことなんてないよ。いつだって好きにさせてもらってた。後ろの席に知り合いがいるのか?」
「うん」
「顔を合わせたくないヤツか?」
「……うん」
「じゃあ、さっさと食べて引き揚げよう。それとも持ち帰るか?」
「持ち帰りにしたい。せっかく連れてきてくれたのに、ごめんね」
「気にするな。家でテレビを見ながらのんびり食べるのもいいものだ」
清隆はショルダーバッグから持ち帰り用のプラスチックパックを取り出すと、手早く詰めた。
以前、家族三人で外食した際、すぐ近くにクラスの女の子の一家が座ったことがあった。翔が家に引きこもっていた頃で、女の子に気づいた翔の顔色がたちまち悪くなって呼吸が速くなった。過呼吸が始まりかけたのだ。
それ以来、清隆は外食に出るときはいつでも店を出られるよう、準備を怠らない。
店の出口に向かう途中で、翔は振り返って加藤を見た。加藤の項と右肩、背中の中央に黒い妖が貼りついていた。
家に帰って食事を終えてから、翔は透子に「透子さんは、自分に意地悪をする人の体に妖がくっついていたら、どうしますか」とメッセージを送った。するとすぐに透子から電話がかかってきた。
「相手が一生変わらないだろうなと思う人だったら何もしません。貼りついている妖を含めてその人の生き方だから。でも、どうしてもその人を助けたいと思ったら、相手が望んでいようがいまいが、妖を剥がします」
「椿さんと葵さんに頼むんですか?」
「いいえ。自分で剥がします。翔さんも妖をはっきり見えるようになる頃には、自分で剥がせるわ」
「僕、もうはっきりと妖が見えます。同じクラスの人の背中に、三匹の妖がくっついているんです」
「そう……。もう見えるのね。そしてその人が翔さんに意地悪をする人なのね。十歳で妖を引き寄せているような子は、剥がしてあげたところで感謝するかしらねえ。嘘を言っていると思うかもしれないし、もっと意地悪をされるかもしれないわよ?」
考え込む翔に透子は、「妖の存在を信じない人を助けることに反対はしないけど、経験から言うとあまりいい結果が想像できないの」
「そうですか……」
そこで電話を終えたけれど、(春人さんなら違うことを言う気がする)と思った。
「お兄ちゃん、春人さんの風邪が治ったら僕に教えてくれる?」
「統神君に用事なのか?」
「うん。春人さんに相談したいことがあるの」
「お兄ちゃん寂しいなあ。お兄ちゃんには相談してくれないのかい?」
「妖のことなんだよ」
榊原清隆が盛大にため息をついた。
「そうか。残念だなぁ。お兄ちゃんはこんなに翔のことを大好きなのになあ」
「お兄ちゃん、ブラコンって言葉を知ってる?」
「知ってるよ。お兄ちゃんは喜んでブラコンと呼ばれるよ」
「もう、やめてよ」
翔が苦笑した。
春人が出勤した火曜日、榊原清隆は昼休みに「統神君が仕事に復帰したよ。今日、時間が取れるか聞いたら、オーケーを貰った」とメッセージを送った。
夜、翔は清隆と一緒に春人のマンションを訪問した。
テーブルの他に折り畳み式の低いテーブルも置かれていて、山盛りの葉野菜と細切りのニンジン、キュウリ、大根も並んでいる。ホットプレートでは焼肉がジュウジュウと音を立てていた。
「このサンチュに焼き肉と細切り野菜をのせて巻いて食べて。おにぎりもあるよ」
雨月がせっせと肉を焼いている。朧は千歳の膝に乗っていて、翔と目が合うと「ぷぎ」とひと声鳴いた。翔が手を伸ばして撫でると、朧は翔の手の近くでパクリと翔の気持ちを食べ、少しの間だけ毛の色が濃くなった。
雨月、千歳、春人が同時にチラッと色が変わった朧を見る。
「翔君は何か悩みがあるのかな? 朧に会いたかっただけじゃないんでしょう?」
「わかるんですか?」
「朧の毛色が黒く変わったからね。朧は食べた気持ちによって、色が変わるんだよ。今の変わり方は、悩んだり苦しんだりしている気持ちを食べた変わり方だった」
「そうなんですか……。僕、春人さんの意見を聞きたいことがあるんです」
翔は加藤のことを説明した。御物部家のそばを通ると変な声が聞こえるとクラスでしゃべったこと。それをきっかけに、加藤から意地悪をされるようになったこと。その加藤には妖が三匹貼りついていること。それを剥がしてやりたいけど、透子には賛成されなかったこと。
春人は焼肉をサンチュで巻いて食べながら、話を聞いている。
「翔君が小学生でいられるのも、小学校時代の思い出を作れるのも、今だけなんだ。大人になってから『ああすればよかった』って後悔してもやり直せないんだよね。翔君は加藤君にくっついている妖を剥がしてやりたいんでしょう?」
「はい」
「じゃあ剥がせばいい。また妖がくっついたら、また剥がしてやればいい」
肉を焼いている雨月が無言で春人をチラリと見た。
「もっと意地悪されるかもしれないって言われました」
「翔君はその子を助けてやりたいから悩んでいるんでしょ? 誰かの意見よりも、自分のやりたいことを選べばいいよ」
そう言って春人がサンチュで包んだ焼肉を翔に差し出した。
「僕ね、子供時代に楽しい思い出があまりないんだ。その原因は、自分の心より親の意見、親の評価を選んだから。翔君、やりたいことをやりなよ。それで悪い結果になったら、僕がいくらでも愚痴を聞く。勧めた僕が悪かったって反省しながら聞く。なんなら僕が加藤君と話し合ってもいい」
「お兄ちゃんも力を貸すよ」
翔は春人と兄の顔を見て考え込んでいたが「うん。やりたいようにやってみる」と答え、差し出された焼肉のサンチュ巻きを口に入れた。
小鈴は春人の部屋に入ってから人の姿になっていたが、ここまで何も言っていない。せっせと翔に焼肉を取り分けているだけだ。雨月はそんな小鈴のことも、さりげなく見ている。
6月8~9日 (月~火)のできごと。




