49 夏風邪
せっかくの週末なのに、夏風邪を引いた。朝ご飯の味がしないなあと思って体温計を使ったら、熱が三十八度ある。病院に行かずに寝て治そうとしたんだけど、雨月が「病院に行け。検査をしてもらえ。薬を貰ってこい」と繰り返し言う。
「僕はいつも寝て治してるんだけどなあ。明日まで様子を見るよ。熱だけだから大丈夫だよ。風邪に効く薬はないんだよ」
「万が一風邪ではなかったら困る。病院へ行こう。タクシーを呼ぶぞ」
「大げさだよ」
「大げさでもいい。病院へ行こう」
雨月の勢いに僕が根負けした。熱のせいで重く感じる体で雨月と病院へ行き、「風邪ですね。インフルエンザではありません」と言われた。解熱剤を貰って部屋へ帰った。千歳は連れて行かなかった。大人の僕が二人も引き連れて受診するのは、いくらなんでも大げさだからさ。
家へ着いてから悪寒と頭痛が始まった。毛布と布団にくるまって、ハアハアと熱い息を吐く。吐く息で熱を放出できたらいいのに。
朧が僕のベッドに乗ってきて、パクリと僕の気持ちを食べた。朧を撫でた。ペットがいるのはいいね。気が紛れる。
一時間ぐらいたって寒気がおさまったと思ったら、熱が三十九度二分まで上がってしまった。ここまでの高熱は幼稚園でおたふく風邪をひいたとき以来だ。
小さな音を聞いても頭のなかでグワングワン響く。トイレに行こうとしたら足元がおぼつかない。とにかく全身がだるい。そんな僕に雨月がずっと付き添っている。起き上がろうとしたら止められた。
「何がしたいんだ」
「解熱剤を飲む」
自分の声とは思えないようなかすれた声だった。雨月が「俺が用意するから春人はじっとしていろ」と言って、解熱剤と水を運んでくれた。薬を飲もうとしたら、喉が焼けるように痛い。上手に飲めず、むせて咳き込んだ。なんだこれ。喉に炎症が起きているのか?
「水が沁みるのか。つらくても我慢して薬を飲め」
「うん」
やっと錠剤を呑み込んだが、喉の痛さに顔が歪んでしまう。そんな僕を雨月はずっと見詰めている。まるで目を離したら僕が死ぬとでも思っているみたいだ。
「僕は大丈夫だから、雨月も休んでよ」
「俺は休まずとも問題ない。俺のことはいいから目を閉じていろ。しゃべらなくていい」
千歳が氷水で濡らしたタオルを額にのせて、頻繁に交換してくれる。いつも陽気な千歳が泣きそうな顔をしているけど、二人とも心配のしすぎだよ。夏風邪ごときで僕がどうにかなることはないって。明日には治っているから心配しないでよ。
「病に関しては、心配のし過ぎくらいでちょうどいい」
「そうですよ、春人さん。とにかく眠ってください。たいていの病気は寝たら治るって、よく四代目が言っていました」
「そうだね。少し眠るよ」
少しうとうとしたら目が覚めた。雨月と千歳が会話している声が聞こえる。普通に声を出してしゃべっているのは、寝込んでいる僕の頭の中に声を響かせないためだろう。
「兄貴、春人さんの熱は、ゆんべ妖に精気を吸われたからじゃないでしょうか」
「いや、違うな。春人はあの程度を吸われたくらいじゃビクともしないはずだ」
「それならよかったです。こんなに医学が発達しても、人間は風邪をひくんですね」
「そうだな。春人はまだ若いから大丈夫とは思うが……」
雨月の声が、いつになく暗い。
「春人さんと兄貴が病院へ行っている間、オラ、斧に戻ったんです。空き家にいた頃を思い出しました」
「病院が遠かったからな。すまなかった」
「いえ、不満じゃねえです。春人さんが心配で……。つい悪いことばかり考えてしまいました」
「春人なら大丈夫だ。ただ、あれほどの熱を出すのは子供の頃以来だと言っていたな」
そう言って雨月がため息をついた。
僕の枕元に置いてあったスマホが振動した。榊原さんからだ。通話ボタンを押して「はい」と言った僕の声は、ずいぶんしゃがれていた。
『榊原です。その声は風邪ですか?』
「はい。熱が高くて……」
『そうでしたか。翔が朧に会いたいと言うんですが、では今日は遠慮します。お大事に』
「すみません。治ったら連絡します」
『翔が透子さんのお宅にお邪魔して、水無月という和菓子を頂いたんです。統神さんの分をうちで預かっているのでお届けしますね』
「風邪がうつるから、職場で頂きます」
『日持ちしなさそうなお菓子なんです。玄関で失礼しますから』
水無月ってどんな和菓子なのか知らない。今はだるくて調べる気になれない。
やがてチャイムが鳴って、雨月が対応に出てくれた。平たい箱を手に、雨月が戻ってきた。
「食べるか?」
「ううん。今は無理。先に食べて」
「いや、お前が食べるときに一緒に食べよう。冷凍しておく」
台所へ行った雨月が何か料理している。柔らかい匂いがしてきたなと思うけど、その匂いを嗅ぐことさえ今はしんどい。うとうとしていたら、「春人」と呼びかけられて目を開けた。
「なに?」
「粥を炊いた。少しだけでも食べてくれるか」
「ごめん、気持ちが悪くて今は何も食べられない。スポーツドリンクある?」
「あるぞ」
差し出されたグラスにストローが挿してある。雨月が背中に手を当てて僕を起こしてくれた。唇がひび割れていたらしく、ストローを咥えたら唇がチリッと痛む。冷たいスポーツドリンクが食道から胃へと流れ落ちていくのを感じる。体が渇いているなあ、いくらでも飲めるなあと思っていたら、雨月の後ろで千歳が半泣きだ。
「大丈夫だよ千歳。明日には元気になるし、月曜には仕事にも行けるから」
「春人さん、今はもう日曜の夜です」
「えっ?」
時計を見たら七時。窓の外は暗い。
「日曜の夜の七時なの?」
「そうだ。あと少し目覚めなかったら、救急車を呼ぶところだった。榊原が菓子を持ってきてから、お前はほぼ一日眠っていた」
「そうなのか……。せっかくの週末だったのに、眠って終わっちゃったんだね。どこかに出かけたかったのになあ」
「お気楽なやつめ」
「あのさ、雨月。お味噌汁が飲みたいんだけど、無理だよね?」
「無理ではない。今すぐ作るから待ってろ」
そう言って雨月が再び台所に立ち、出汁を引いている。お粥のときは匂いが鼻についたけど、出汁の香りは食欲をそそる。お粥のときは、だいぶ具合が悪かったんだな。
雨月がお椀にお味噌汁を入れて運んできた。具は絹ごし豆腐ととろろ昆布だ。そっと口に含むと急激におなかが空いてきた。
「お粥、まだある?」
「あるぞ。今温めてやるから待て」
雨月がまたコンロの前に立った。僕の枕元に千歳が座って、今度こそ本当に泣いていた。朧がぷごぷご鳴きながら千歳の周りで拾い食いしている。
「よかったです。兄貴がずっと心配していて、朧が兄貴の周りで気持ちを食べて黒くなっていました」
「そう……。心配かけてごめんね。明日は出勤できそうにないなあ。病欠の連絡をしなきゃ」
「榊原さんが今日もお見舞いに来てくれたんです。心配していました」
雨月がお粥を運んできた。お盆にお粥、梅干しの種を抜いて叩いたもの、おかかの醤油和え、ネギ味噌の小皿が並んでいる。ネギ味噌は懐かしい。母さんが好きだったから、何度も作ったことがある。ネギ味噌を口に入れ、お粥を食べた。胃袋が喜んでいるのを感じる。
お粥を二杯食べて、歯を磨いて、眠った。
目が覚めたら空が明るくなっていた。雨月と千歳が僕の顔を見ていた。
「具合はどうだ?」
「気分がいい。もう大丈夫だよ」
「そうか、よかった」
そう言って雨月が僕から離れた。
熱が高かったとき、うつらうつらしている僕のそばで雨月がぽつりと、「死ぬな。絶対に死ぬな」とつぶやいたような気がしたんだけど、熱のせいで変な夢を見たのかもしれない。
6月6日~7日 (土~日)




