48 妖をつかむ
僕の部屋に戻り、三人と一匹になったとたんに雨月が「妖を自分で剥がすのはやめておけ」と言う。
「透子さんにできたなら、僕にもできるんじゃないの? 利用者の中に、小物の妖を体にくっつけている人がたまにいるんだよ。たいてい調子が悪そうなんだ。気の毒でさ、悪い人には見えないんだ」
「妖が貼りついている時点でその者の心根に問題があるのだ。もうわかっているだろうに、なぜそんな者にまで同情するんだ」
「雨月はそう言うけどさ、悪い人だけとは限らないんじゃないかなあ」
例えば父さんに恨みを抱えていた頃の僕は、妖がくっついていても不思議はなかったと思う。不遇な環境で自分の人生を恨んで、妖を呼び寄せてしまうことだってあるんじゃないだろうか。
何度か隣の窓口の生活支援課に来ているとある女性は、いつも背中に二匹の妖をくっつけている。妖の数は増えることも減ることもない。
「カウンターから出て妖をつかむつもりか?」
「そこなんだよ。年金課の僕がカウンターから出てその人に近寄ったら、怪しまれるだけなんだよね」
「やめろやめろ。ろくなことにならない」
「まあそうだよねえ。諦めるしかないのか……」
話はそこで終わった。うどんだけではおなかが物足りなかったから、夜食にあんかけチャーハンを作ることにした。
「春人さん、あんかけのあんは難しそうですね」
「いや? 僕は片栗粉に調味料を混ぜて水で溶いて火を通すだけだよ」
「そんなに簡単なんですか。それはカニですか?」
「カニカマだよ。魚のすり身でできているんだ。カニは高いからそうそう買えないな」
千歳はカニカマにも感心しながら僕の手元を見ている。料理に興味があるようだ。
カニチャーハンに冷凍のグリーンピース入りのあんをたっぷりかけて食べた。
雨月も千歳も無言でバクバク食べているから気に入ったらしい。食べ終わった皿を千歳が洗って、僕はテーブルを拭いていた。すると雨月がベランダに続くサッシを大きく開けた。
「蒸すから開けるぞ」
「いいけど、妖が入るんじゃないの?」
「俺が見ているところで妖をつかんでみるといい。俺がいないところでやられるのは心配だ」
あっ。雨月がいないところで試してみようと考えていたのがバレてる。頭の中を読まれるのは不便だな。
「来たぞ」
「はやっ!」
僕の手のひらよりもひと回り小さな妖がふわふわと部屋の中に入り込んだ。雨月がすぐにサッシを閉めて妖を閉じ込める。
「俺が見ているところで試せ」
「うん」
雨月は右手に刀を持ち、千歳もいつの間にか斧を手にしている。妖はぼんやり黒く、輪郭がはっきりしていない。そいつは部屋の中でゆっくり動き回っていたが、少しずつ僕に近づいてくる。外に出れば、毎日のように妖を目にしているから、さすがに僕も悲鳴を上げることはない。
空中で蚊を握りつぶす要領で右手を動かしたけど、妖はその風圧でふわりと逃げる。雨月や千歳が猛烈な速さで妖を斬るのは、そうしないと逃げられるからか。
妖は僕の周囲をふわふわと漂っていた。だけど次の瞬間、ヒュッと僕の右腕に貼りついた。そして貼りついたと同時に輪郭がはっきりした。エイと蝙蝠を足して二で割ったような黒い妖は表面がテラテラとした光沢がある。僕は思わず喉の奥で「ングッ!」と悲鳴のなり損ねみたいな声を出した。
笑われたかと雨月を見ると、いつでも妖を斬れるように真顔で刀を構えている。千歳は斧を振り上げていた。
「僕の腕ごと斬るのは無しで頼むよ」
「当たり前だ。いいからさっさとそいつを引き剥がせ」
「うん」
僕の右前腕にぴったりと貼りついている妖を、左手で剥がそうとした。するとチリッとした感覚と共に、妖はいっそう密着してくる。
あれ? 引っぺがしては放り投げって椿さんが言ってたよね? 剥がせないんですけど?
慌てて端を指先で摘まんで剥がそうとしていると、妖の体がゆっくりと脈打つように動き始めた。
「精気を吸い始めたぞ。早くしろ」
「それが剥がれないんだ。どうやるの?」
「俺は吸い付かれたことがないからわからん」
「うええ?」
妖はますます僕の腕に張り付き、頭からエイの尻尾のような部分へと波打っている。これは頭から剥がすのが正解か? と頭らしき場所に指をかけて、一気に引っ張った。皮膚も引っ張られる感じがした。
妖は「キッ!」という声を出して潰れて剥がれ、僕の左手は黒いベトベトしたものにまみれた。日がたって溶け始めた生ワカメを握りつぶしたみたいになっている。
「ぎゃっ!」
思わず悲鳴を上げて左手を振ったら、すうっと古ワカメが消えた。心臓がバクバクしているし、左手に残った感触が気持ち悪すぎて喉の奥が勝手にえづく。
「へたくそだな」
「そうでしょうけど! 初めてなんだから仕方ないでしょうが! これで妖は死んだの?」
「死んだというのが正しいかどうか。『生き物は子をなして増えるが、妖は子をなさないから生き物ではない』と淳之介は言っていた。だから『消えた』と言うべきだろうな」
ああ、まあそうね。高校の生物の時間に、そんな話を聞いたことがあるね。
台所で石鹸を使って丁寧に手を洗った。その必要はないんだろうと頭でわかっていても、気持ちが悪くて。
「透子さんは引っぺがしては投げ捨てたらしいけど、妖の頭をつかんで引き剥がしたってことかな」
「だろうな」
「これさ、雨月たちがいないときは、引き剥がしてから踏みつけるのでもいいのかな。握りつぶすのは気持ち悪過ぎて無理だ」
「春人が妖の消滅を願いながら踏みつぶせば消えるだろうな」
「ふうん。覚えておく。これがゲームならティロリンと音が鳴って、スキルをひとつ手に入れた場面だね」
雨月は返事をせず、ベランダを見ている。窓の向こうに、さっきの二倍くらい大きな妖が来ていた。
「どうする? あれの相手もしてみるか?」
「う、うん。やってみる。今度はさっきより上手にできると思う」
雨月がサッシを開け、妖が入ってきた。モルモットくらいというかメロンくらいの大きさの妖は、天井近くをゆっくりを旋回していたが、僕に向かって結構なスピードで下りてきた。
あっ、上から来るんだった。手を使わずにあいつを踏みつぶすのは無理だわ。ええと、ええと、どうすればいい?
僕は妖から身をかわしながら考えた。叩き落とすのはどうだ?
逃げるのをやめた。妖がスーッと僕に向かってくる。それを右手で叩き落とそうとしたら、妖が反転した。
「ぎゃあっ!」
そいつは僕の右手のひらに張り付いた。慌てて振り払ったけど、ぴったりと密着した妖は離れない。そのうちまた頭から尻尾にかけて波打つような動きが始まった。キモいよぉぉ。
だから今回も左手の指先を妖の頭の下に差し込んで引き剥がそうとして、ついじっくり見てしまった。妖には目も鼻もない。三角の頭部にはなにもなく、体全体で僕の精気を吸っている。
「さっさとしろ!」
雨月が少し怒ったような声を出したから、一気に妖を剥がした。剥がした勢いで床に向かって叩きつける。いったんはぺしゃりと床に落ちた妖が跳び上がる前に(消えろ!)と念じながら足で踏みつけた。「キィッ」と言う声を出して妖が消えたけど、古ワカメを踏んだようないやな感じが足の裏に残る。足を持ち上げて靴下を確認したら、潰れた黒いものが消えていくところだった。
僕はそのまま床に大の字に倒れた。
「気持ち悪すぎる」
「透子は子供のうちからこれをやって慣れていたんだろうな」
「そんな気はしていたけど、透子さんて豪傑だね」
「肝は据わっているな」
僕はまだちょっと息が荒い。仰向けになって天井を眺めている。
「やってみてわかったけど、これは人前ではできないな。何もない空中で腕を振り回したり、何もない地面を踏みつけたりしていたら、完全におかしい人だよ」
「まあそう思われるだろうな」
「やっぱり雨月や千歳に斬ってもらうことにするよ」
「それがいい」
「妖のことはオラたちに任せてください」
「よろしくお願いします」
すると雨月が「ふふふ」と笑った。千歳は唇を噛んで笑うのを我慢している。
「え、なに?」
「怖がりのお前が必死になって妖を退治している姿は、なかなか可愛らしかった」
「可愛らしくないし! 笑うとこでもないわ!」
ムッとして僕が言い返すと、雨月と千歳はまた笑った。それは馬鹿にした笑い方じゃなくて、小さな子が頑張って蚊を叩き潰したのを見ました、微笑ましかったです、みたいな生温かい笑い方だった。
まあ、僕は付喪神使いになってまだ二ヶ月と少しだもんね。小さな子供みたいなものか。
6月5日(金)夜のできごと




