45 三階の大貫さん
チャイムが鳴ってモニターを見たら三〇一号室の女性がドアの外に立っていた。救急車で運ばれた人。
雨月と千歳に「ドアから見えないところにいて」と声をかけ、ドアを開けた。
「私、三〇一号室の大貫と申します。先日は救急車を呼んでくださってありがとうございました」
「統神です。もう退院なさったんですね」
「はい。薬がよく効きまして、さっき退院してきました。腹膜炎になり始めていましたが、おかげさまで命はとりとめました。これ、お世話になったお礼です。ありがとうございました」
そう言って有名な和菓子店の紙袋を手渡してくれた。大貫さんは倒れていたときよりもずっと顔色がいい。倒れている時は四十歳くらいかと思ったけど、薄くお化粧をして髪を整えている今は、三十歳を少し超えたくらいに見える。
「救急車を呼んでいただかなかったら、かなり危険だったそうです。本当にありがとうございました。私、混乱していて、ベランダから男性が入ってきたと看護師さんに言ってしまったんです。もしかして統神さんにご迷惑が掛からなかったでしょうか」
「あー、警察の人が確認に来ましたけど、僕は五階から三階のベランダに降りるなんてとてもできないと言ったら、一度で納得してくれましたのでご心配なく。あ、ちょっと待っていてください。そうだ、大貫さんはアレルギーとか、ありますか」
「いえ、何もありませんが」
大貫さんは困惑しているけど、少しだけおすそ分けをしようと思った。母さんが入退院を繰り返していた頃、「買い物も料理もできなくて、春人に任せてばかりでごめんね」と言っていたのを思い出した。
「退院したばかりなら、買い物をするのも食事の用意をするのも大変でしょう? よかったらうちの夕飯を少し持っていってください。あっ、知らない男が作った料理は不安ですか?」
「いいえ! でも、お礼に来たのにそんなご迷惑は……」
「僕は料理が道楽なんです。今日はたまたまさっぱりしたメニューなので、退院したばかりの体にも優しいと思います」
こういう場合、容器を返さずに済むよう、料理を入れるのは捨てられるものがいい。百均で買ったプラスチックパックに、今夜のおかずを少しずつ詰めた。
今夜は蒸し鶏とキュウリのポン酢和え、オクラのすりごま和え、梅干しと生姜の混ぜご飯、セロリのコンソメスープだ。揚げ物じゃなくてよかった。
いただいた紙袋の中からどら焼きを取り出して、そこにスープ以外のおかずを入れた。
「よかったらどうぞ」
「すごいですね。一人暮らしなのにこんなに手のかかるものを何品も」
「いえ、レンジで加熱したり茹でたりするだけの簡単なものばかりです。どうぞ」
大貫さんは何度もお礼を言って帰った。ドアを閉めると、部屋の隅にいた雨月と千歳がテーブルに着いた。
「春人さんはいい人だなあ。朧、お前もそう思うだろ?」
「ぷごっ」
「慈悲深い男だな」
「二人とも大げさだよ。母さんが言ってた言葉を思い出しただけだよ。一週間とか二週間とかベッドに横たわっていると、びっくりするぐらい筋肉が落ちるらしいんだ。一人暮らしの人は退院した後でどうしてるのかしらねって、母さんが言ってたんだよね。大貫さんも一人暮らしだろうし。さ、夕飯にしようよ」
三人で食べ始めた夕飯で、一番人気は梅干しと生姜の混ぜご飯だった。お茶碗によそってから好みで刻んだミョウガ、大葉、煎りゴマをのせるのだけど、僕は大葉が好きだ。雨月と千歳は全部のせで食べている。
「食後のデザートは頂いたどら焼きだよ」
「はああ、こんな美味しいものが食べられて、オラ、毎日が極楽です」
「お前は幸せなヤツだな」
「はい、兄貴。すんごく幸せですぅ」
◇
美也が自分の部屋に戻り、ドアの鍵をかけた。
大貫美也は、三十二歳バツイチ独身である。とある企業のデザイン課で働いている。
美也はしばらく前から繰り返す腹痛に苦しんでいたが、あの日は声も出ないほどの痛みで動けなくなった。
これはただならぬ事態だと悟ったときにはもう、ギリギリと内臓を絞られるような腹痛と吐き気に襲われていた。床にうずくまったままテーブルの上のスマホを取ることもできない。
そもそもそんなことになったのは、職場の上司から「この日までにこの書類を」と渡された量が多かったのがきっかけだ。繰り返す腹痛で病院に行こうと決め、有休を申し出てもなかなかうんと言ってもらえなかった。「申し訳ないけどこれを済ませてからにしてくれる?」と言われた。
今どき有給申請にこんな対応をする職場ってと思ったが、転職先も見つけていない身では上司を相手に文句を言いにくかった。
最近、同じデザイン課の若手三人が申し合わせて同時に退職したため、美也を含めて同僚たちは山のように仕事を抱えている。とても自分の仕事を頼める空気ではなかった。その結果の緊急入院である。
目の前がチカチカするほどの腹痛に脂汗をかき、意識が薄れかかる中、(こんなことなら、私もさっさと辞めればよかった)と後悔していた時だ。
ベランダに通じる窓が開いて、風が吹き込んできた。うずくまった姿勢のまま視線を動かすと、背の高い男がベランダから入ってきた。美也は(三階なのに? 私、ついにお迎えが来たんだろうか)と一瞬思った。
その男は、大股で部屋を横断し、床でうずくまっている美也をチラリと見て、そのまま玄関に進んで鍵を開けた。
玄関から若い優しそうな男性が自分を見ていると思ったところで記憶が途切れている。
担架で運ばれて救急車に乗せられたこと、病院で看護師さんや医師に話しかけられて答えたことは微かに覚えている。だが、何もかも記憶が曖昧だ。
点滴をされ、検査も済んで痛みが落ち着いた頃に警察の人が来た。刑事さんの質問に答え、鍵はかけてあったと答えた。
その刑事さんは退院する前の日に病室を訪れ、「やはりドアのカギは開いていたようです。こじ開けられた形跡はありませんでした。窓からは誰も入っていないんじゃないかな。三階ですしね」と言われた。
そんなはずはない。毎日の習慣で、ドアには間違いなく鍵をかけたし、ベランダからは男が入ってきた。だが、そう言い張ることは気が引けて反論しなかった。
長年の付き合いの友人が見舞いに来てくれたから鍵の件と麗しい男について話をしたら、逆に「大丈夫?」と心配されてしまった。
「何もされていないし盗まれたものもないんでしょう? 人間はあまりに強い痛みに晒されると、脳が快楽物質を出すって言うじゃない? それで幻覚でも見たんじゃないかしら。そんな美形なら、私も会ってみたいわ」と友人は笑った。
統神から渡された料理をテーブルに並べた。皿に移すのも億劫で、そのままパックを開けて箸をつけた。
「美味しい。あの人、一人暮らしでしょうにすごいわねえ」
特に梅生姜ごはんが美味しい。蒸し鶏とキュウリのポン酢和えも後を引く美味しさだ。
美也は離婚して一人暮らしに戻ってから、ほとんど料理をしていない。スーパーのお惣菜、お弁当屋さんの日替わり弁当、コンビニのサンドイッチとおにぎりで生きているようなものだ。
青年の手料理は簡単な料理だったけど、丁寧に作られている。食べている途中でフリーズドライのお味噌汁を作った。この丁寧な料理には汁物を添えるのが礼儀だと思った。
貰った料理を全部食べ終え、美也は熱い緑茶を淹れて飲み、「あのまま死ななくてよかった」と、一人の部屋でつぶやいた。
「料理をする余裕が生まれるくらいの職場を見つけて、さっさと転職しよう。そしていつかお菓子を焼いて味わうくらいの生活をしよう。助けてもらった命を削ってまで働いて、お金を遺して死んだらばかばかしい。そうだ、お菓子を焼いたら統神さんにおすそ分けをしよう。あの人ならきっと、迷惑とは思わないでしょう」
そんな美也のスマホに、上司からメールが届いた。『いつから復帰できそう?』と聞いてきた上司に「一週間の有休を申請します」と返事をし、それ以降のメールは見なかった。
ふと思いついてベランダに出た。統神が住む五〇三号室は斜め右上で、あそこから自分の部屋に来るのは絶対に無理だと納得した。
「あの男の人と統神さんは知り合いのように見えたんだけどな。やっぱり幻覚を見たのか。それにしても美しい幻覚だったわ」
◇
「春人さん、このどら焼き、うんまいですねえ!」
「大きな栗が入ってるね。お位牌にお供えしておこうっと」
「お茶のお代わりを淹れるが、春人も飲むか?」
「うん、飲みたい」
「オラも飲みたいです」
「お前……。まあいい。千歳の分も淹れてやろう」
「ぷごっ」
三階から美也が春人の部屋を見上げている頃、五〇三号室の室内はほのぼのしていた。
6月1日のできごと。




