44 笹井さんとベビーシャワー
区役所の年金課の奥隣は生活支援課だ。そこの笹井真由さんが明日から産休に入る。
今日は付き合いのある職員が集まり、マンダリンカフェでお別れの会が開かれる。僕も誘われた。僕は新人時代、笹井さんにはずいぶんお世話になった。
当時の僕と笹井さんは市民課にいた。市民課の仕事は多岐にわたっている。
転出入の手続き、住民票の発行、婚姻届と離婚届の受理。出生届と死亡届も受理する。
市民課は人生の節目節目の手続きを受け付ける部署だ。笹井さんは教育係というわけでもなかったのに、僕に「場に応じた言葉」をたくさん教えてくれた。
「統神君はこれから毎日たくさんの書類を受理するけれど、それを出す人にとっては人生で一回か二回の場合がほとんどなの。事務的に処理するのは間違いではないけれど、家族を失ったばかりの人や赤ちゃんが生まれた人には、少しだけでいいからお相手の気持ちに寄り添ってあげて」
「わかりました」
どう対応したらいいのかわからない場合は、笹井さんに聞いた。おめでたい書類のときは心から「おめでとうございます」と笑顔で声をかけた。家族を失って魂が抜けたようになっている人には「ご愁傷さまでした」と声をかけた。
市民課での三年間、誰かの人生の節目に毎日出会っていた。笹井さんのおかげで、僕は大きな失敗をせずに済んだ。
マンダリンカフェで夕方六時に始まった壮行会は、正式にはベビーシャワーと名付けられていた。ベビーシャワーという言葉は日本に定着してるんだろうか。僕は海外ドラマの中でしか見聞きしたことがなかったよ。
雨月と千歳は今日だけ残業を申し出て、店長に喜ばれたそうだ。
雨月が次々と軽食を運び、千歳がビールやワイン、ウイスキーの水割りを運んでくる。笹井さんは面倒見がいい人だから、ベビーシャワーにはしばしの別れを惜しむ職員が大勢参加している。
女性陣が上気した顔で雨月を目で追っている。カフェユニフォームを着た雨月は素晴らしく見栄えがするから無理もない。僕は主としてちょっと鼻が高い。
いろんな人が雨月に話しかけている。「このお店は何時まで営業しているんですか」とか「ランチのテイクアウトもできるんですか」などと、「どれも壁に書いてあるし!」と言いたくなるようなことを質問している。
男性職員たちは「俳優みたいな店員さんだな」「モデルのバイトじゃないの」と言い合っている。
そんな雨月が、宴もたけなわという頃に僕の背後に来た。肩越しに僕の顔の横に自分の顔を近づけて、「ちゃんと食べているか?」と聞いてきた。「大丈夫だよ。ちゃんと食べてる」と答えると、雨月は無言で立ち去った。
たいていの人は酔っぱらって声が大きくなっていたから気づかなかったけど、僕の隣に座っていた笹井さんには聞こえたらしい。
「あの人、統神さんの知り合いなのね?」
「雨月は遠い親戚です」
「とんでもないイケメンね」
「そうですね。僕はもう見慣れましたけど」
「あの方、会の最初から頻繁に統神さんを見ていたから、統神さんのお兄さんなのかと思ったわ」
「僕は一人っ子なんですけど、彼が兄だったらいいなと思いますね。気は優しくて力持ちって、雨月のためにあるような言葉です」
すると笹井さんは「統神さんも優しいわよ」と言う。
僕? 優しいところなんて、笹井さんに見せたことがあったかな。
「そう見えましたか?」
「新人の頃に、高校生ぐらいの娘さんがお母さんの死亡届を出しに来たことがあったでしょ? 統神さんが泣きそうな顔をしているのを見て驚いたから覚えてる」
「あっ……。仕事中なのにあれはまずかったですよね」
「ううん。あの娘さんの悲しみに寄り添ってあげたんだもの、まずくはない。統神さんは優しい人だなと思ったわ」
五年近くも前のことなのに、笹井さんは覚えていたんだな。あのときは自分が母親を亡くした当時のことを思い出してしまって、その高校生が気の毒でたまらなかった。
「頻繁に死亡届を受理していると、だんだん慣れてしまうのよ。統神さんを見て『それじゃだめ』と、改めて気づかされた。事務処理をする窓口だけど、事務的な感情で対応するのはよくないもの」
「そうでしたか……」
「おなかの子は男の子なの。私ね、この子が統神さんみたいに優しくて他人の悲しみに寄り添える人に育つといいなと思ってる」
「笹井さんが育てるんですから、きっと優しい子に育ちますよ」
「ありがとう」
ベビーシャワーが終わり、笹井さんは花束を受け取って退場した。僕は店の外で雨月たちを待つ。ほどなくして雨月と千歳が来た。
「待たせたな」
「大丈夫だよ」
「店長さんが余りものだけどと言って、お土産をくれたんです。春人さんはチーズケーキが好きですか」
「大好きだよ。嬉しいな」
見たらホールのレアチーズケーキだ。
「店長が、オラたちがよく働くからお礼だと言っていました」
「そうなんだね。ではありがたくご相伴に預かります」
夕食後に小ぶりのレアチーズケーキをワンホール、三人で食べ切った。千歳は嬉しそうに、雨月はとても美味しそうに食べていた。珍しく雨月の近くで朧がパクリパクリとこぼれた気持ちを食べていたから、雨月はよほどレアチーズケーキを気に入ったらしい。
満腹になってダラダラしていると、雨月が話しかけてきた。
「笹井の話を聞いていた。いい話だった。たいていの人間は何にでも慣れる。顔も知らない他人の死に寄り添って胸を痛めるのは、春人が善人たる所以だ」
「僕も社会に出る前に母親を失ったからね。その子は高校生で、十七歳だった。戸籍を見たら、母親と二人だけの家庭でさ。その母親を失ったんだよ。僕のときよりずっと悪い状況だった。十七歳の子が死亡届を出しに来たってことは、葬儀後のあれこれを手助けしてくれる親戚がいなかったのかなと思ってさ。胸が痛んだ」
世の中には親に反抗する高校生が星の数ほどいる。でも、母と子で暮らしていたのに、その母を失って死亡届を出しに来る高校生もいるんだ。
「今はあの子も二十二歳か。あの子にもし会えたら、大変だったねって、今まで頑張ったんだねって言ってあげたいけど、もう会うことはないんだ。はぁ……。もう一杯紅茶を淹れるけど、雨月と千歳は飲む?」
「ああ、いただこう」
「オラもいただきます」
桃の香りをつけてある紅茶を飲みながら、久しぶりにあの高校生を思い出した。その子は顔色が悪くて、疲れた様子で、淡々と手続きをして帰った。母親は十分な生命保険に入っていたのだろうか。治療費で貯蓄を取り崩していたんじゃないだろうか。
あの子は生活費を稼ぐところから一人の生活を始めなきゃならないんだろうかと、気の毒に思ったことが甦る。もしかしたら親戚に引きとられたのだろうか、とかさ。
彼女が不幸になったとは限らないから、勝手に想像して同情するのは失礼だ。でも……。
あの当時、この部屋に帰ってから、「僕はまだ恵まれていたんだな。高校を出るまでお金の心配はしないで済んだ」と反省したはずなのに、いつの間にか忘れていた。僕が父さんと上手くいかなかったなんてことは、些細なことなんだ。父さんのことでを恨みがましく思うのは、きっぱりやめよう。
「しんみりしているなら、今夜はお前の好きな入浴剤を豪勢に使え」
「そうだね。そうするよ」
千歳が沸かしてくれたお風呂に、森林浴の香りの入浴剤を贅沢に二個入れた。少し考えてから、三個目をちゃぽんと湯船に落とした。
お湯から清々しい緑の香りがする。
僕は今、毎日が楽しくて幸せだ。この幸せに慣れないようにしよう。毎日幸せだなと、ちゃんと確認しよう。そう胸に刻んでいたら、千歳がドアの向こうから声をかけてきた。
「春人さん、お背中を流していいですか?」
「うん、お願いします」
千歳は大きな体でそろりと浴室に入ると、タオルに石鹸をこすりつけて泡立てた。千歳に背中を向けてイスに座ったら、僕好みの強さで背中を洗ってくれる。
「ありがとう。気持ちがいいよ」
「春人さん、オラ、ずっと一緒にいますんで。春人さんに寂しい思いなんかさせねえですから」
鏡越しに見たら、千歳が鼻の頭を赤くしている。父さんのことを考えていた僕の気持ちを読んで悲しくなったのか。でもさ、恨み続けるのは疲れるからね。
「大丈夫。僕は毎日幸せだ」
「春人さんは……いい人だぁ」
そう言って千歳が泣き顔になったら、ドアの向こうで朧が「ぷぎぷぎっ!」と抗議の声をあげた。中に入れろということらしい。千歳が朧を中に入れると、朧が千歳の周りで気持ちを食べ、少し黒くなった。それを見た千歳が慌てて泣き止んだ。
「朧は思わぬところで役に立つね」
「なんか、すんません、オラが泣いても仕方ないのに」
「千歳は優しいから」
背中を流してもらったあとは、濃い入浴剤の湯にまったりと浸かった。
5月27日(水)のできごと。
ついにストックが切れたので、書けた日に投稿することになります。
ここまで14万3千字。
毎日の投稿はできなくなるかもしれませんが、今後も春人と雨月と千歳と朧を、どうぞよろしくお願いします。




