43 雨月の主たち
夜の十一時。春人はベッドに入るなり眠ってしまった。春人は寝つきがいい。健やかな証拠だ。
雨月はあまり眠らない。長いときはひと月くらい眠らないこともある。
そんなときはそっと静かにベランダに出て、夜空や夜景を眺めて過ごすことにしている。東京の夜は明るくて、星は少ない。その代わりに見渡す限りの夜景が広がっている。
雨月は、江戸がこんなに大都市になったことに感心する。江戸には多くの人が住んでいたけれど、それでも少し外れた場所には森と林と草の原が広がっていた。田畑もたくさんあった。
誰に言うともなく、「短い一生で、人間は多くのことを成し遂げるものだ」とつぶやいた。
昨日の夜、春人が魂緒を見えるようになった。春人が五歳のときに血の契りを交わし、その後は離れ離れで再会したのが三月の二十八日。共に暮らすようになってから、まだ二ヶ月にも満たない。
今までの主は血の契りを交わしてから離れることなく暮らしていたが、魂緒が見えるようになるまで五年から十年はかかった。春人の場合は生まれつき付喪神使いの能力が高かったとはいえ、ここまで急激に成長されると何か良くない事態を引き起こさないかと心配になる。
そう考えて、雨月はフッと自嘲した。
(何も起きないうちから悪いことを予想していては、春人に注意できないな)
そう思うそばからかつての主たち、特に若くして命を落とした主の顔が思い浮かぶ。
今ほど医療が進んでいない時代、人間はあっけなく命を落とした。淳之介や幸之助のように、天寿を全うしたと言えるほど長生きした主は多くない。
だから昔の親たちは、我が子が付喪神使いとわかったらすぐに血の契りを結ばせた。付喪神が我が子の命を守ってくれると期待したのだ。
だが雨月は人間の敵や妖から主を守ることはできても、病を防ぐことはできない。いつぞや春人に「付喪神が何でもできると思うな」と言ったのはそういう理由からだ。
馬が移動手段だった時代は、ちょっとした傷から人は死にいたることがあった。金創痙である。
当時は金気の毒が体に入って発症する病とされていた。実際は馬の腸内にもいる破傷風菌が広く土壌にいて、切り傷や擦り傷から菌が体内に入り込んで発症した。その機序が明らかにされたのは、だいぶ後になってからだ。
雨月が仕えたある主は、金創痙で命を落とした。主の家族は刀傷などの怪我を専門に診る刀傷医を呼んだが、体力次第と言われた。破傷風を発症すれば、十人のうち九人は命を落とした時代である。
江戸時代になると金創痙は破傷風と呼ばれるようになったが、まだこれといった治療法がなかった。この病は患者が歯を食いしばって口を開けられなくなり、体を弓のように反らせるのが特徴で、主の症状はまさにそれだった。二十代だった主はあっという間に儚くなった。
次の主とは五歳で血の契りを交わした。幼名は市之助。陽気な子で、雨月を遊び相手にして育った。
「雨月、蟻の行列だよ!」
「雨月、肩車して!」
「雨月、見て! ツバメだ!」
その主は八歳で亡くなった。風邪を拗らせて肺の臓を傷めて息絶えた。
人間は病気や怪我で簡単に死んでしまうとわかっていても、幼い主を失ったときの悲しみは深く、記憶から消えることがない。そして何度経験しても慣れることができなかった。
洞穴で初めて松千代を見たとき、雨月は市之助を思い出した。
松千代をこのままにしておくのは酷だと思った。いっそ消してやるのが慈悲だとも思った。だが統神の主たちは松千代を消してはならないと言う。雨月は歯がゆかった。
今回やっと松千代の魂を救えた。もう松千代のことを思い出しても、憂鬱になることも胸を痛めることもない。ここまで長かったが、「この子を消してはならない」と言った統神の主たちの判断は正しかったのだ。消えていくとき、松千代の顔は笑みを浮かべていた。雨月が消してしまっていたら、あんな笑みを浮かべることはなかっただろう。
今は医学が発達しているから、人間は長く生きるようになった。
それでも雨月は、春人が怪我や病気で死ぬのではないかという恐れを拭えない。そして、医学が発達した時代に、刀の出番はない。主のために刀で命のやり取りをする時代は終わっている。
人間を相手に雨月が刀を使ったのは、親友に裏切られ、多くの敵に囲まれて腕を切り落とされた主のときが最後だった。
しかし、こんなに平和な時代でも、包丁で人を害そうとする人間はいた。
マンダリンカフェで給仕をしている最中に、春人の「雨月!」という心の叫びを聞き、何が起きているのかを理解した瞬間の、雨月の怒りはすさまじかった。
あのとき、雨月の胸の内は怒りではち切れそうだった。雨月は男を押さえ込むまでの自分の心の内が醜くかったから、春人に知られたくないと思っている。
普段の雨月は春人を妖から守ることに全力を注いでいる。春人の付喪神使いの力はどんどん強くなり、寄ってくる妖もそれに比例して増えている。今はまだ小者の妖しか現れていないし、御物部透子を狙った妖も大柄ではあったが攻撃力は低く、中の下ほどの脅威だった。
本当に強い妖の恐ろしさを、春人はまだ芯のところでわかっていない。
この平和な世界で二十七歳まで育ってしまったのだから、それは仕方ない。春人は怖がりだから、少しずつ段階を踏んで自分の身の危うさを知ってくれればいいと思っている。
「兄貴、どうかしましたか」
さっきまでぐっすりと寝ていた千歳がベランダに出てきた。千歳の足元には朧がいる。朧は「ぷごぷご」と鳴きながら、雨月の足元で二口、三口と餌を食べた。雨月の心からこぼれ落ちた悲しみや不安を食べたせいで、朧の毛が一瞬だけ黒くなってから元の色に戻った。
それに気づいて千歳は表情を曇らせたが、心配の言葉は口にしなかった。千歳はただ、雨月から少し離れた場所に立って空を見上げるだけだ。
千歳は一見ガサツなようでいて、心の細やかなところがある、善良な付喪神である。
「オラ、主を持つのは初めてなもんで、兄貴の悲しみや苦しみはわかってねえと思います。ですが、春人さんを守りたいと思うオラの気持ちは本物です」
「ぷぎ」
「あんなにいい人は、そうそういねえです」
「ぷぎぷぎ」
「なので兄貴、春人さんのことで何か心配事があったら、オラに話してほしいです」
「ぷご」
真剣に話をしている千歳の足元で、朧が合いの手を入れるように鳴く。鳴くタイミングがあまりに絶妙なので、雨月は笑い出した。
「すまん。千歳が真面目な話をしているのに、こいつが……」
「ぷぎぷぎ」
朧がまた鳴いて、雨月と千歳は同時に笑い出した。二人で静かに笑い続け、やがて同時に真顔になった。
「そのうち俺の主たちの話をしよう。聞いてくれるか?」
「もちろんです! オラずっと、兄貴が見てきたことを聞きたかったです」
「そうか。早世した主の話もある。春人は俺を心配性の父親みたいだと言うが、話を聞けば俺がなぜ春人のことを心配するか、千歳ならわかってくれるだろう」
背後で、春人が目を覚まして起き上がった。
「部屋に戻るぞ」
「ぷごっ」
再び朧がタイミングよく鳴き、二人の付喪神は忍び笑いをしながら室内へと戻った。
春人は寝ぼけ眼で雨月たちを眺めていたが、また眠ってしまった。朧がぴょんとベッドに飛び乗って、春人からこぼれ落ちた気持ちを食べている。毛色が明るい色のままなところを見ると、春人はいい夢を見ているらしい。
「健やかであれ。幸せであれ」
春人を眺めながらそうつぶやいて、雨月は床で横になった。
5月25日 (月・深夜)のできごと。




