42 背中の紐
倒れていた女性は虫垂炎をこじらせて腹膜炎にまで進んでいたそうだ。
彼女は病院で意識を取り戻し、「すごく背が高くてものすごい美形の男性が窓から入ってきた。ドアの鍵はかけてあった。間違いない」と病院の人に説明したらしい。
彼女の「知らない男性がベランダから入ってきた」という部分が病院から警察へと通報され、僕の部屋に警官が来た。そうなるのは予想していたよ。僕はたくさんの質問をされた。
「あなたの名前と勤め先は?」「女性と顔見知りですか」「窓から入った理由は?」と聞かれて正直に答えた質問もあれば、大嘘をついた質問もあった。
「保護した猫を捜していたら呻き声が聞こえたんです。チャイムを鳴らしたけど返事がなくて、ドアの鍵は開いていました。間違いありません。僕がベランダから入ったって言っているんですか? まさか。僕の部屋は五階です。そんな恐ろしいことはできません」
警官は僕の目をじっと見つめていた。雨月たちのことを聞かれたらどうしようと思っていたけど、聞かれなかった。警官は割とあっさり帰った。僕は中背だしものすごい美形でもないから、彼女の見た人物とは違うと判断されたんじゃないかな。今日ほど平凡な外見に感謝した日はないな。
翌日は透子さんたちに雨月の蕎麦を披露する予定だから、部屋の掃除をした。
今日、透子さんたちは約束の時刻の五分後にうちのチャイムを鳴らした。僕は精一杯の笑顔で迎えた。
透子さんは部屋に入るなり朧を見て「あらあら。なんて愛らしい妖でしょう。それで、統神さんはなぜそんなに元気がないんです?」と僕を心配してくれた。僕はそんなに顔に出ているのか。
「この朧のおかげで、僕は警察にあれこれ聞かれたんです。また事情聴取されるかも」
「何があったんです?」
透子さんが表情を変えて聞いてくれたから、食器を並べながら事情を説明した。雨月は黙ってネギと海苔を小皿に盛り付け、僕は事情を説明しながら麦茶を人数分並べた。千歳は朧を抱いたまま、大きな体を小さくしている。
「千歳、君は悪くないから恐縮しなくていいよ。僕があの人を助けようと思ってやったことなんだから」
「その子は朧っていうのね? どんな妖なんです?」
雨月が「朧は人間からこぼれ落ちた気持ちを食べる」と説明すると、透子さん、椿さん、葵さんが一斉に「なんて可愛い」「こぼれ落ちた気持ちが主食なんて!」「初めて見ました。そんな妖がいるんですねえ」と一斉に盛り上がった。
すると朧は「ぷごっ! ぷぎっ!」と鳴きながら透子さんたちの周囲でパクパクと見えない気持ちを食べ続け、それがまた可愛いと盛り上がる。
蕎麦が並べられ、みんなで食べた。このために折り畳み式のローテーブルを買ってあり、僕らはそっちに座って食べた。
「雨月さん、これはお店を出せる味ね。驚いたわ」
雨月はニコッと笑って頭を下げた。雨月の打った蕎麦は昨日と同様に美味しい。
蕎麦を食べ終わった透子さんは割りばしを置いて姿勢を正した。
「統神さん、今回の件は心配いりません。この地区の警察署長と私は顔見知りで、長年の友人です。あなたが信用に足る人物だと、さりげなく伝えましょう。署長さんとはあの方が巡査だった頃からの付き合いです。当時まだ若い巡査だった署長さんは、私が主催している『日本酒を楽しむ会』に、上司に連れられて参加したの。それからのお付き合いなのよ」
「いえ、お気遣いには感謝しますが、僕は本当に窓から入っていないので大丈夫です」
「春人、善意は素直に受け取れ。俺と千歳のことを警察に調べられたら面倒だ」
「そうよ、統神さん。使えるものはなんでも使うのが大人の知恵よ」
大人の知恵か。そうだね、安全な橋が渡されているなら、グラグラ揺れる吊り橋よりそっちを渡るべきか。
透子さんの言葉が効いたのかどうか、警官はそれ以降、僕のところに来なかった。入院した女性は快方に向かっているらしいと透子さんが教えてくれた。あの人の名前を今も知らないけど、この先、雨月と彼女が顔を合わせないといいな。
「また先のことを心配しているのか? 俺のことなら大丈夫だ。苦痛で混乱している時の幻覚だろうと言い張ればいい。証拠はない」
そうだね。雨月は五階の僕の部屋から三階のあの部屋に飛び降りたから、マンション入り口にある防犯カメラには映っていない。僕は人生で初めて警察に嘘をつくという不慣れなことをしたせいで落ち着かないけども。
透子さんたちが帰ったあとでぼんやりとテレビを見ていたら、青いレンタカーの男の顔が大写しになった。
男は三十二歳の会社員で、ひき逃げの容疑で逮捕されたらしい。「へえ」と眺めていたら榊原さんからメッセージが来た。
『統神君のおかげであの男が逮捕されました。大山さんの手柄になりました。統神君のおかげだとお礼を言われました。これで統神君は安心できますね』
その大山さんはこの前、わざわざ僕の部屋まで来て情報提供のお礼を言ってくれた。
あの男が逮捕されて気が楽になった。これで憂いなく日々を過ごせる。
いつの間にか朧が足元に来ていた。「ぷぎぷぎ」と鳴きながら僕の周囲でこぼれ落ちた気持ちを食べている。安堵の気持ちがこぼれ落ちるほど、僕はホッとしているらしい。真っ黒だった朧の体毛は、いつの間にか元の色に戻っている。
夜、透子さんから自作の麺つゆが届けられた。透子さんは麺つゆを自作して常備しているらしい。麺つゆを運んできた葵さんは「かえしを寝かせた本格派ですよ」と微笑んだ。
透子さんが作った麺つゆは、あの量が少ない高級蕎麦店の味がした。味見した雨月が、「さすがだな。旨い。また蕎麦を打つか」とやる気を見せた。
僕は順調に付喪神使いの力を増量させているらしい。
さっき蕎麦つゆを持ってきてくれた葵さんの背中から、半透明な太い紐のようなものが伸びているのが見えた。直径が十センチくらいもある太い紐だ。背中全体から生まれて、背中と腰の中間あたりで太い紐になっている。紐は少しずつ細くなっていくが、途切れている気配はない。あの紐をたどれば透子さんに行きつくのだろうな。
そのつもりで雨月と千歳を見ると、葵さんよりだいぶ細い紐が見える。意識しないと見えない。
なるほど、何十年も主従関係を続けていれば、この細い紐が太くなるのか。
「春人、どうかしたのか?」
「雨月と千歳が、僕と紐みたいので繋がっているのが見える。こう、目を凝らさないと見えないんだけど」
雨月が驚いた顔をしている。彼のそんな顔を見るのはとても珍しい。
「あれ? まずいことなの?」
「いや。春人の成長があまりに早いから驚いている」
「さっき、葵さんの背中からこのくらいの太い紐が出てるのが見えてさ。驚いたよ。あれ、前からあった?」
「あった。魂緒と呼ばれるものだ。まだ細い我らの魂緒も、いずれあのくらい太くなる」
「千歳にも見えるの?」
千歳はばつが悪そうな顔をして雨月を見てからうなずいた。
「はい。兄貴と春人さんは、初めて見た時から細い糸でつながっていました。でも……」
「最初からあれもこれも説明したら春人が混乱するだろうし、恐がるだろうから言うなと口止めしておいたのだ」
「すんません、春人さん」
ふうう、と息を吐いた。確かに雨月と知り合ったばかりの頃に背中から糸が出てるとか、それが僕と雨月を結び付けているとか聞いたら、恐怖でしかなかったろうな。今も目を凝らさないと見えないのは逆にありがたい。ちょっと不気味だもの。
「あのさ、雨月と千歳の紐は、こんがらかったりしないわけ?」
「絡まない。魂緒同士が交差すれば、スッと通り抜ける。もしかして春人は犬の散歩紐を想像しているのか?」
「うん」
雨月は「ずいぶん可愛い想像だ」と言ってふわりと笑った。
くつろいでいたら、榊原さんからメッセージがきた。あの男は誰でもいいから人を殺そうと思っていたらしい。最近、そんな事件をときどき見かける。
「ある意味、戦国の世よりも物騒だな。あの時代は敵を倒す明確な理由があった。殺したいと思って殺す奴など、俺は見たことがなかった。それでも、この時代はいい。皆がおっとりと生きていられる。怪我をしてもよく効く薬がある。飢えて死ぬ者もいない。素晴らしいことだ」
そう言う雨月は.遠い目をしている。
5月24日(日)のできごと。




