41 蕎麦打ち
翌日、普段は行かない高級スーパーで茹でるだけの蕎麦をカゴに入れた。
雨月が怪訝そうな顔をしているから「なに?」と聞いたら「粉から蕎麦を打つのではないのか」と言う。
「じいちゃんは自分で蕎麦を打ってたの?」
「そうだ。春人は蕎麦を打ったことがないのか」
「ない。僕の友達でも蕎麦を打つ人はいない。あれは結構年齢がいった男性の趣味って感じじゃないの?」
「統神の集落では男も女も年齢も関係なく蕎麦を打っていたが。今はどうなのかわからん」
「雨月は?」
「蕎麦か? 打てる」
もー、なにこの人。必要な情報を出さなさすぎだよ。先に言ってほしい。
「雨月が打ってくれた蕎麦を食べたいな」
「オラも兄貴が打った蕎麦を食べたいです!」
「道具を買い揃えるのか? 高い蕎麦になりそうだな」
検索したら、初心者用蕎麦打ちセットは一万円以上だ。いや、蕎麦打ちセットはいらないな。そんなにしょっちゅう蕎麦を食べないもの。その分のお金でお店の美味しい蕎麦を食べる方がいい。
すると雨月がスマホの画面を覗き込んで「のし棒と蕎麦切り包丁さえあれば作れるぞ」と言い出した。
「そうなの? 雨月の腕前がどれほどなのか知りたいから、のし棒と包丁を買うよ!」
「ふむ。透子たちも呼ぶか?」
「いいね。いつもご馳走されてばかりで気が引けてたんだよ。榊原兄弟も呼んでいい?」
「いいぞ」
明日の昼に透子さんたちは来てくれることになったが、榊原家は予定があるという。榊原さんは電話の向こうで『付喪神が打った蕎麦なんて貴重なのに。心から残念です』と悔しがっていた。今日明日は伯母さんが泊りがけで遊びに来るのだという。
「今回は急な話でしたから。雨月の気が向いたらまた打ってもらいますから、その時に。そのときはきつね蕎麦にしましょうか?」
『きつね蕎麦、いいですねえ、ぜひ!』
僕たちはのし棒と蕎麦切り包丁を買い、蕎麦粉も買った。それから試食と称して有名な蕎麦店でざる蕎麦を食べた。蕎麦の香りがいいしつゆも美味しい。でも、驚くほど量が少なかった。千歳は一瞬で食べてしまった。店を出てすぐ雨月が「考え方はそれぞれだろうが、あれは食事か? 量が少なすぎるだろう」と渋い顔をしている。
「おなか一杯にしたかったら何枚も追加してくださいってことだろうね」
「三人で満腹するまで食べたら、蕎麦とは思えない金額になるな」
「そうだねえ」
「今夜の食事も蕎麦でいいか? 透子は舌が肥えているし、椿と葵も舌が肥えているに違いない。蕎麦を打つのは久しぶりだから、練習しておきたい」
「楽しみにしているよ」
「淳之介と幸之助にみっちり教わった蕎麦打ちだ。透子なら披露する相手に不足はない。春人、さっきからなにをニヤニヤしている」
「だって、雨月がやたら張り切っているのが珍しくてさ」
僕に張り切っていると言われて我に返ったのか、そこからの雨月は無言で蕎麦粉と取り組んだ。
フライパンを使って蕎麦粉を練り、テーブルの上でのばし、折りたたんで切っている。前にも思ったけど、さすがは刀の付喪神。包丁の使い方が見事だ。均一な太さの蕎麦がみるみる出来上がっていく。
「包丁と刀を一緒にするなと言っているだろうが」
「すみません。ん? いや、そんなこと言われてないな」
「……言ってなかったか。包丁は身を養うために使われる道具。生を司る道具、刀は死を与える道具だ。使わずに済むならそれに越したことはない道具だ」
タンタンタンとリズムよく蕎麦を切りながら、雨月はそんなことを言う。
その言い方だと、刀であることが苦しいみたいに聞こえる。でも雨月は僕の考えには反応しない。こういうとき、僕は深追いしない。僕も父のことを深追いされて尋ねられたら苦痛だから。
希釈せずに使う、ちょっと上等な蕎麦つゆを買ってきてある。それを器に注ぎ、山葵をすりおろした。以前、美味しそうな鮪の中トロを買ったときに奮発した、サメ皮おろしだ。
蕎麦を茹で、洗い、大皿に盛り付けた。ツヤツヤしている蕎麦をつゆにつけて口に入れると、しゃっきりした蕎麦からいい香りがする。茹で加減がちょうどよかった。
「美味しいねえ」
「新蕎麦の時期になったらまた蕎麦を打とう。もっと香りがいいはずだ」
「これ以上うんまくなるんですか」
「そうだ。千歳、腹いっぱい食え。遠慮するなよ」
「はいっ!」
山のようにあった蕎麦を三人で食べつくして、行儀が悪いけどそのまま床にひっくり返った。次は蕎麦つゆを僕が自作しようかな。
そこでハッと気づいた。朧はどこだ? 蕎麦を茹でているときには窓際にいたけど。
「千歳、朧はどこ?」
千歳がガバッと起き上がりベランダに飛び出した。そして「ベランダに出たがるから出していたのですが、いなくなっています」と半泣きで報告した。ベランダに朧だけを出したのか。しまった。朧を千歳に任せっきりで油断してた。
「俺が知っている朧は飛べない。まあ、妖だから五階から飛び降りても死なないだろう。まだそう遠くへはいっていないはずだ。近所を捜そう」
「待って。まずはマンションの中を捜そう。僕は四階、雨月は三階、千歳は二階を見て。それでいなかったら一階に集合ね」
このマンションは五階建てだ。五階の通路にはいないことを確認して、エレベーターは使わず階段を駆け下りた。四階を見終わって三階に降りると、雨月が朧を抱えていた。朧の毛並みが真っ黒になっている。そこへ千歳も駆け付けた。
「よかった、いたんですね。兄貴、ありがとうございました。こいつ、真っ黒です。どうした? お前、何を食べた?」
「朧は三階の一番端のドアに張り付いてせっせと食べていたぞ」
「朧が黒くなる感情って、殺意?」
「殺意は感じなかったから、食べたのは苦しみか悲しみ、そんなところだろう」
「おせっかいなのは承知だけど、ちょっと声をかけてみるよ」
雨月は一瞬険しい顔をしたけれど、「俺も行く」と言ってついてくる。その後ろに千歳も朧を抱えてついてくる。レンタカーの店でも朧は黒くなったけど、それはわずかな時間だけで、すぐに元の瓜坊の色と柄に戻った。ところが今は、ずっと真っ黒なまま。どれだけ黒い感情を食べたんだ。
このマンションに管理人は常駐していない。週三回巡回に来て、掃除やゴミ出しをチェックするだけだ。
三〇一号室のチャイムを鳴らした。なんて言おうか。中に人がいるのは間違いないけど、ええと、ええと。ああ、いい言い訳が思いつかないな。焦っていると、雨月が「落ち着け」と声をかけてくれた。そうだ。落ち着こう。
だが、待っても反応がない。室内からは何の音も聞こえない。ドアには鍵がかけられている。中の様子を窺っていた雨月が声を潜めて僕に質問した。
「春人はこの部屋の住人の顔を知っているか?」
「全く」
「そうか。では仕方ない。春人の部屋からこの部屋のベランダに下りる」
「えっ。さすがにまずいよ。見られたら通報されるって」
「部屋の中の人間が、死にかけている。このままでは死ぬぞ。飛び降りるのは一瞬だ。夜だから目撃されないだろう」
「……わかった。行って」
雨月が階段を駆け上がって僕の部屋に戻り、何分もしないうちに三〇一号室のドアが開けられた。玄関ドアから見える場所に、顔が土気色の、四十歳くらいの女性が床に倒れている。僕が救急車を呼んで、女性は救急隊員に担架で運ばれていった。
救急隊の人に「お知り合いですか?」と聞かれた僕は、「知り合いじゃありません。保護した猫が逃げたから、追いかけていたら呻き声が聞こえたんです。チャイムを押したけど反応がなくて、ドアは鍵が開いていました。失礼だとは思ったけど、ドアを開けたら女性が倒れていました」と、大嘘をついた。
こんなにスラスラと嘘をついたのは、生まれて初めてだ。精神的に追いつめられたせいで、火事場の馬鹿力みたいなものが出たんだと思う。
女性が搬送される前、僕の名前と部屋の号数を聞かれたから、僕はこの後、警察から取り調べを受けたりするんだろうか。
5月23日(土)のできごと。




