38 花田店長と朧(おぼろ)
マンダリンカフェの店長、花田悟は、無神論者だった。
花田は小学六年生のある日、母に連れられて有名な神社にお参りに行った。父に病気が見つかって入院していたので、病気平癒祈願で参拝したのだ。
帰りに神社の裏手で、母のお気に入りの占い師に見てもらった。母はその手のことが好きな人だった。占い師の老人は、「この子には霊感がありますね」と言った。
母はいいことを言われたかのように喜んだが、花田少年は(嘘くさい)と思った。
大人になった花田は「人間は死ねば終わり。だから生きている間にやりたいことをやる」という志で生きてきた。
過去形なのは最近、「もしかして、神様みたいなものがいるのか?」と思うようになったからだ。原因は雨月と千歳である。
年度末のある日、絵画のように美しい男が夢に出てきた。そして夢の中で「この男が店に来たら雇え」と言う。
「変な夢だったなあ。俺、疲れてるのかな」
目が覚めたとき、まずそう思った。
マンダリンカフェは立地がいいから賃料が高い。店はそこそこ流行っているから赤字こそ出していないが、たいして儲かってもいない。賃料の他に人件費が経営を圧迫している。その人件費を抑えるべく、花田は朝早くから閉店後まで、ずっと店で働いている。
週に一度の休業日も経理作業をしていて、満足するまで寝たのはいつだったか、もう思い出せない。
不思議な夢を見た翌朝、夢に出てきた男が本当に店に来た。
雇ってほしいと言われたが、しばしその男を見つめたまま返事ができない。呆然としたのは夢が現実になったことだけではない。男が夢で見たよりも、人間離れした美しい容姿だったからだ。
この見た目なら俳優でもモデルでもいけるのでは? と思ったが、シフトの希望を聞いて納得した。
雨月宗親と名乗ったその男性は、平日は十八時まで、土日祝日は仕事を入れられないと言う。
この人は何かやりたいことがあって、ウェイターはそのための副業なんだなと判断して、花田は雨月を採用した。
初日から雨月はベテランのような働きぶりを見せた。
注文を間違えることは皆無。料理を運ぶのも片付けるのも、優雅で素早い。客への目配りと対応も完璧で、ウェイターのリーダーが舌を巻いている。
「店長、彼は本当にこの仕事、初めてなんですか?」
「当人はそう言ってるね。嘘をつく理由もないから本当なんでしょ?」
「土日祝日、彼がいてくれたら売り上げが段違いに増えそうなのになあ。もったいないなあ。時給を上げて交渉したらどうです?」
「交渉したよ。ダメだった」
それでも雨月目当ての客がとても増えた。彼を雇ってからすぐに毎日行列ができるというありがたい状況だ。ランチタイムを過ぎても客が途切れず厨房の人手が足りない。下げられた食器が洗われないまま溜まってしまうことが増えた。
するとまた雨月が夢に出た。雇ってほしい若者がいると言い、その人を雇わないならその若者と一緒に他の店に行くと言う。
夢だからいいやという思いと雨月に去られたら客が減るという本音で、店長は夢の中で何度も頷いた。
そして今回も夢は正夢だった。まるで神様のお告げだ。ウェイターのリーダーに夢の話をしたら、「店長、もう少し休みを取ったほうがいいんじゃないですか? その間、俺が店長代理として頑張りますから」と心配されてしまった。
雨月が連れてきた千歳は気立のいい若者で働き者だ。手が足りないときはホールにも出てもらうのだが、雨月に負けず劣らず女性客に人気だ。
だが、その千歳の様子が連休明けから変である。
食器を洗いながら独り言を呟くのはまあいいとして、まるで何かが厨房を動き回っているかのように視線を動かしているのを、度々見かけるようになった。
「千歳君、どうしたの? 虫でもいるのかい?」
「いえ、なんでもありません。よそ見してすんませんでした」
そう言って洗い物に取り組むが、しばらくするとまた何かを目で追っている。花田は気になって仕方ない。
だが、それを雨月が終わらせた。千歳の耳元で何かを囁いてるな、と思ったら千歳が「兄貴、すんませんでした。以後、気をつけます」と平謝りしている。
「雨月君、千歳君がキョロキョロしていたのは何だったの?」
「ああ、あれは……なんと言ったか……そう、あいつのイマジナリーペットです。ペットごっこをいい加減にやめないなら、仕事を辞めさせると言っておきました。もう問題ありません」
「イマジナリーペット? 空想上のペットってこと? 仕事に集中してくれればいいんだよ。千歳君をやめさせないでね。彼はとてもいい戦力になってくれてるから」
雨月はうっすらと笑ってうなずき、仕事に戻った。相変わらず迫力がある微笑みだ。
花田は気持ちを切り替えて客席全体を見回していたのだが、しばらくして何かが脛に軽くぶつかったような気がした。ん? と見下ろしても何もいない。
俺は本当に疲れてるのかもしれない、と思いつつランチタイムを乗り切り、夕方まで働いた。
十八時になったので雨月と千歳に「お疲れ!」と声をかけて見送った。見るともなしに窓の外を眺めていたら、区役所から出てきた若者と雨月たちが合流している。若者は店に時々来てくれる職員さんだ。
するとその若者が、何かを歩道から抱き上げた。猫くらいのものを抱き上げる動作だったが、腕の中には何もいない。
千歳がその腕の中に笑顔で話しかけ、若者が笑い、あろうことか雨月も腕を伸ばして若者の腕の中の何かを撫でた。驚いて見ていると、ほんの一瞬、若者の腕の中に瓜坊が現れた。だが次の瞬間にはもう瓜坊が見えない。
花田はフロア担当のリーダーに話しかけた。
「やっぱり俺、二日間の連休を取っていいかな。変なものが見えるんだ」
「休んでください。疲れてるんですよ。二日と言わず三日休んでも大丈夫です」
「じゃあ、そうさせてもらうよ。悪いな」
こうして花田は三日間の連休を取ったのだが、復帰して早々にスタッフルームで千歳が「こら、店の中を走り回るな」と言っている場面に出くわした。
驚いている花田に雨月が気づき「イマジナリーペットです。千歳、やめろ」と言い。千歳は「はい、兄貴」と素直に従っている。
「うん、わかった。千歳君、イマジナリーペットもいいんだけど、仕事に集中してね」
「はい、すんません店長」
それで話は終わったと思ったのだが。
ランチタイムが終わっても客が途切れない。花田は(雨月君が来てから順調すぎるくらいに順調だなあ)と満足して微笑んでいた。
次の瞬間、何かが右肩に飛び乗った。間違いなく体重のある何かが右肩に乗って、グラグラしながらバランスを取っている感じがする。勘違いではなかった。耳元で「ぷごっ」と鳴き声みたいな声もする。
恐る恐る右肩を見ても、何もいない。花田は凍りついた。
花田が(ダメだ、俺、壊れかかってる)と絶望した時だ。雨月が「失礼します」と言って両腕を伸ばし、何かを花田の肩から持ち上げる動作をした。すると肩から重さが消えた。
「雨月君、今、何かを持ち上げたよね?」
「はい、千歳のイマジナリーペットを持ち上げました」
「もしかして、本当に何かがいるなんてことはない?」
「ありません。空想上のペットですから」
そう言って雨月は腕の中の何かを床に置いた。
「え? 今、何を置いたの?」
「俺たちの間の遊びなので、お気になさらず」
「そう……。イマジナリーペットか。肩に飛び乗られたような感じがしたのは、俺の気のせいだね?」
「はい。気のせいです」
そう言って雨月は客の方へと去っていく。花田は(俺はもう、何も考えない。仕事に集中しよう)と決めて、肩に乗った何かのことは忘れることにした。
◇
その日の帰り、春人が雨月と千歳を連れて買い物をしていると、雨月が話しかけてきた。
「春人が教えてくれたイマジナリーペットという言葉は便利だな。さすがに無理があるだろうという状況でも、なんとかなった」
「そう? よかった。イマジナリー何々って言うとね、たいていの人はそれ以上踏み込まないよ。デリケートな話題になっちゃうからさ。お、今日は鯵が安い。鯵フライにしようかな」
「鯵フライか。いいな、楽しみだ」
千歳は朧のことで迷惑をかけたせいで少々元気がない。千歳の腕の中の朧は、ぷごぷご鳴いて千歳からこぼれた気持ちを食べている。朧の色が少し濃くなったから、千歳は悲しい気持ちでいるようだ。
「大丈夫だよ、千歳。そのうち朧も環境に慣れると思うよ」
「店長さん、オラをクビにしないでしょうか」
「しないと思うぞ」
「ほんとですか兄貴。こら、朧、もう店長さんの肩に飛び乗ったらダメだぞ」
「ぷごぷご」
朧はご機嫌で、千歳の肩へと飛び乗った。
5月13日(水)のできごと




