36 瓜坊みたいなもの
連休が終わり、区役所は一日中混雑した。年金について説明を繰り返し、質問に答え続けた僕はぐったりしている。
マンダリンカフェは今日も混んでいる。これ、雨月が働いている限り、永遠にあそこでランチを食べる日が来ないような気がする。そう思っていたら、椿さんが僕の担当の窓口に来た。
「今日はなんのご用ですか」
「そんなに身構えないでください。透子様から差し入れをお預かりしてきました。透子様は翔様とメッセージを交わされていて、山での一件と統神さんのご対応に、大変感銘を受けていらっしゃいました。『これはほんの心ばかりの差し入れです。どうぞお召し上がりください』とのことです」
透子さんはスマホを持っていたのか。メッセージアプリも使えるのか。僕と連絡を取った時は雀がメッセンジャーだったのはなぜだ。
椿さんが渡してくれたのは、以前も差し入れていただいた小ぶりな重箱と思われる。
「ありがたく頂きます」
「では失礼いたします」
お弁当は職員食堂で食べることにした。重箱は今回二段重ねで、上の段には鰆の木の芽味噌がけ、しし唐と白ごまの炒め煮、筍の肉巻き、卵焼き、粗みじんのゴボウがたっぷり入った肉団子、花の形のにんじんの甘煮。下の段には菜の花がのせてある散らし寿司だ。
木の芽味噌がとても美味しい。木の芽は僕と同じみじん切りだ。これ、味付けを覚えて再現したい。
そう思っている僕の前に、榊原さんが座った。最近はもう、当然のように僕を捜して前に座る。榊原さんは今日もきつねうどんだ。よっぽど好きなんだな。
「おっ。美味しそうなお弁当ですね。統神君が作ったんですか?」
「いえ、御物部透子さんからの差し入れです。量が多いので、よかったら味見をしますか」
「ぜひ。統神君は頑張りましたからねえ。妖を見る力は努力でどうこうなるものでもないから、実に羨ましい」
「そうですか……。榊原さんはドライブによく行くんですか? 僕は車で遠出するのは久しぶりでしたが、楽しかったなあ」
「ほう?」
榊原さんの眼鏡がキラリと光った……ような気がする。
「あのドライブ旅行のことを、うちの母が大変喜びましてね。引きこもっていた翔が私以外の人と出かける気になった、それがよほど嬉しかったらしいです。どうです? 今後もドライブ旅行へ一緒に行きませんか?」
「そうですね。僕も楽しかったので行きますか。それに、榊原さんの法的な知識は頼りになります」
「そうですか、一緒に行ってくれますか! いやあ、今後に大きな楽しみができました。それに、私の知識が役に立つのも嬉しいです」
榊原さんはたぶん、僕と一緒にいれば妖や霊魂と出会えると思い込んでいるんだろうけど、実際そのとおりになってきてるから何も言えないや。
榊原さんは終始ご機嫌で「では次の目的地は私に任せてください。よさげな場所をいくつも知っています」と言って立ち去った。
僕たちは最初の頃よりだいぶ親しい雰囲気になっている。僕の座右の銘は「日々平穏」だから、職場の人間関係が円滑になるのは歓迎すべきことだ。
◇
そうして案内されたのが、東京都の西の端にある山奥の保養所……だった工事現場だ。
「榊原さん、ここって……」
「はい、繰り返し工事が止まると評判の場所です」
「なんでまたこんな場所に……。翔君だっているのに」
「僕のことは気にしないでください。僕は小鈴がいるから何も怖くありません」
「そうは言ってもねえ、翔君」
ここはうちの区の元保養所だ。築四十五年の建物を現在の耐震基準に合わせて全面的に改修し、研修や合宿の場として提供し、災害時には区の皆さんが利用できる複合施設に、するはずだった建物。
だが、どういうわけかこの建物の改修工事には不運が付きまとう。
まずは元請け業者の破産。
再入札で次の業者が決まったと思ったら、建設資材の高騰で予算が不足し、議会で補正予算が通らない。
やっと予算が通ったと思ったら、今度は職人不足で工事が進まない。
そんなこんなで八年たっても荒れた古い建物のままだ。人が出入りしないと、建物はこんなに荒むんだな。
キャンプの目的地にこんな場所を選ぶなんてと、僕は少し腹が立っている。だけど榊原さんの弟である翔君が楽しげだから困る。
「お兄ちゃんがここはどうだい? って僕に聞いたから、行きたいって答えました。ここを選んだのは僕です」
「そうなの?」
じゃあしょうがないか。僕は子供に弱い。それに、この荒んだ雰囲気の建物以外は、川があって緑が濃くて、キャンプするにはいい場所だ。僕たちがテントを張る前庭は、区の所有地だから問題ない。
ここでびっくりしたのが千歳のアウトドアスペックの高さだ。
薪と炭に火をつけるのはアウトドア初心者にとっての最初の壁だけど、千歳がテキパキと杉の枯れ枝を集めて火をつけた。
斧だった時代に覚えた知恵らしい。雨月は手を出さずに千歳を見守っている。
千歳は火をつけ終わると「焚き火用の枯れ枝を集めてきます。薪を買うのはもったいねえです。買った薪は次のときに使ってください」と言って、せっせと枯れ枝を拾っている。小鈴さんも一緒に枯れ枝を拾い始めた。翔君が「僕も行きます」と言って、三人で動いている。
その間に雨月が肉を焼き始めた。
「春人はいつも料理を頑張っているから、今日は俺がやる。休んでいればいい」
「料理できるの?」
「春人ほど手の込んだものは作れないが、肉を焼くのはできる」
「統神君、お言葉に甘えて私たちはコーヒーを飲んで休みますか。今、淹れますね」
榊原さんはコーヒーを淹れるのが上手だった。コーヒーの粉を計量スプーンできっちり量り、慎重にお湯を注いだコーヒーは、お店並みに美味しかった。
「コーヒーと焼きそばだけは得意なんです」
「このコーヒー、本当に美味しいです」
翔君が千歳と戻ってきた。千歳は杉の枯れ枝の束を抱えていて、翔君は……瓜坊みたいな何かを抱えている。小鈴さんが簪を右手に持って付き添っていて、彼女の鋭い眼差しは翔君の腕の中のものに向けられている。
思わず立ち上がって「雨月!」と声をかけたけど、雨月はもう気づいていた。千歳と小鈴さんがついていながら何をやっているんだと怒ると思ったのに、雨月の表情は穏やかだ。
「お兄ちゃーん! 見てー! 猪の子供を保護しちゃった!」
榊原さんは一度メガネを外し、もう一度かけ直した。翔君を見ながら、コソッと僕に話しかける。
「私の目がおかしいのでなければ、翔は何も抱えていないように見えますが?」
「僕には翔君が瓜坊を抱えているように見えます。でもあれは……瓜坊によく似た、別の何かですね」
「はい?」
榊原さんが目をギュッと強くつぶり、翔君をもう一度見た。僕にはあれが瓜坊そっくりだけど瓜坊じゃないのはわかる。だって、翔君の腕の中で、ときどき体の輪郭がギザギザにぼやけるんだもの。瓜坊に擬態している何かだ。
ソレは翔君の腕の中でジタバタ暴れながら千歳を見上げている。千歳が困った顔で翔君の腕の中のソレと雨月を忙しく見ているのは、雨月に怒られると思っているからだろう。雨月が大股で三人に歩み寄り、立ちはだかった。
「翔、それは猪の子供ではない」
「違うの? んー、それでもいい。僕、この子を保護したい」
「それは妖だぞ?」
「ええ? 雨月さん、よく見て! 妖じゃないよ。ちゃんと重さもあるし、毛も生えてる」
そこで千歳が恐縮した様子で頭を下げた。
「すんません兄貴。妖だから関わっちゃならねえって言ったんですけど。オラがコイツを斬ろうとしたら、翔さんが覆いかぶさって庇うもんで、どうしようも……」
「私も同じくです。申し訳ありません」
二人は困り果てた顔で頭を下げた。そこまで話を聞いていた榊原さんが「ちょっと待って、翔」と口を開いた。
「翔、お兄ちゃんには何も見えないよ。それなのに翔に見えているなら、妖だと思う。いったんソレから手を離そうか」
「お兄ちゃんにはこれが見えないの?」
「何も見えない。なんだかおかしいよ。早くそれから離れなさい」
「嫌だよ……」
すると雨月は穏やかな声で翔君に話しかけた。
「それは朧という妖だ」
「やっぱり妖なの? この子が?」
「雨月、妖なら翔君の精気を吸ってしまうんでしょ? さっさと遠ざけなきゃ」
「いや、これは人の精気を吸わない。朧は人や動物からこぼれ落ちた気持ちを食べるから、人に害をなさない。ずいぶん珍しいものを見つけたな、翔」
普段はクールビューティーな雨月が、無邪気そうな笑顔で朧を抱え上げ、顔を覗き込んでいる。
こぼれ落ちた気持ちとはまた、詩的な表現だな。そして雨月はそいつをどうするつもりだい?
5月7日(木)ー9日(土)




