33 さようなら、松千代君
雨月に道案内をされながら、慎重に運転している。路肩を踏み外したら崖から転落だから、場所によっては超低速のノロノロ運転だ。運転しながら雨月に聞いてみた。
「松千代君は洞穴の前に張られた注連縄に近づけなかった。あれは効力があるんだね」
「あの集落の者たちが定期的に訪れているからな。注連縄を信じる者がいる限り結界は破れない」
「以前は統神家の当主が毎月、洞穴の奥まで来てくれて、私の話し相手をしてくれました」
ひいじいちゃんの幸太郎さんは、なぜ話し相手だけで終わらせていたんだろう。お骨を掘り出して手厚く埋葬してあげたら、松千代君は何百年も寂しい思いをしないで済んだのではないのか。
すると雨月が前を向いたまま説明してくれた。
「そう簡単な話ではない。この子は誠一郎の言葉を信じて待っているうちに息を引き取ったのだろう。今際の際の思いは強い。純真な子供ならなおさらだ。幸之助は『若様の願いが叶うまでは、このままがいい』と言っていた」
「統神幸之助さんも、そはの前の統神淳之介さんも、私の話を聞いて誠一郎を探してくれました。でも見つからないと言っていたんです。『いつか必ず統神家の子孫が誠一郎を見つけるから、それまで待ってくれ』とも言っていました」
松千代君は窓の外を眺めながら、静かに語る。
僕がここに来るかどうかなんて誰にもわからなかったのに、なぜそんな根拠のない約束をしたのか。
んん? 待てよ。ああっ、そうか! 今気がついた!
松千代君の事情を知っていて、幸之助さんやその前の主の淳之介さんの思いを知っていて、僕を動かせる人がいた。雨月だ!
桜でんぶを作っているときに、「車で朔の家に行かないか?」と提案したのは雨月だった。
図ったな、雨月! なんで正直に事情を話してくれなかったんだよ!
「春人に今回の事情を正直に話していたら、恐がりのお前はここに来なかったはずだ」
あっ、うん、それは確かにそう。
怖いものからは逃げる主義の僕を知っていたから、雨月は説明せずに連れてきたのか。
でも、僕だって少しは強くなっているんだよ。松千代君が本当に可哀想で気の毒だったから、洞穴で松千代君が姿を現しても、僕は逃げなかった。ちょっとは僕に説明があってもよかったんじゃない?
「そうだな。春人はずいぶんたくましくなった。まさか松千代の手を引いて出てくるとは思わなかった。春人、もう少しで車は入れなくなる。そこからは歩きだ」
雨月の言うとおり、道が唐突に終わった。その先は笹と雑木で塞がれている。僕たちは車を下りて雨月の後ろを進んだ。松千代君は僕の手をしっかり握り、雨月のペースから遅れない。
途中から千歳が先頭になり、僕たちのために斧を使って笹や細い木を薙ぎ払って道を作ってくれている。続いて雨月、僕と松千代君。その後ろに榊原兄弟。最後尾は小鈴さんだ。
「兄貴、そろそろですね。黒い気配が漂ってきます」
「そうだな。松千代、春人、俺から離れるな。小鈴、油断するな」
黒い気配なら、誠一郎さんとは別の妖か? そう思っていたら、千歳と雨月の足が同時に止まり、辺りを見回していた付喪神の二人が上を見た。
「わあっ!」
見上げた僕が思わず叫んでしまった。だって、だいぶ先の松の木の枝の上で、大きく膨れ上がった黒い化け物みたいなものがこっちを見下ろしているんだもの。あれは誠一郎さんじゃないよね?
「あれは……誠一郎です。私にはわかります。あんな姿になって、なんて哀れな」
松千代君は涙を浮かべながら化け物を見上げている。黒い化け物が高く跳躍し、すぐ近くの木の高い枝に飛び降りた。
「おのれ……。森長可の家来どもだな! 松千代様をどうするつもりだ! 今ここで全員の首を飛ばしてやる!」
「誠一郎! 会いたかったぞ。この者たちは敵ではない。安心して下りておいで」
「いいえ松千代様、騙されてはなりません。そやつらは松千代様を囮にして私を殺し、その後で松千代様を殺すつもりなのです!」
すると松千代君は僕とつないでいた手を離し、数歩前に出た。
「誠一郎、私は村の人々に埋葬された。もうとっくに息絶えたんだよ。お前もそうだ。私たちはもう逃げなくていいんだ。我が一族を根絶やしにしようとする織田軍も森の軍も、ずっと昔に土に返ったそうだ。だからもう、闘わなくていいんだ」
「そんなはずは! そんな……はずは……」
誠一郎さんの声から怒りが弱まった。大きな黒い球のようになっている誠一郎さんの体から、はらりはらりと黒く小さなものが離れていく。あれは小者の妖だ。小鈴さんが翔君の隣にピタリと寄り添い、誰に言うともなく言葉を漏らした。
「あんなに多くの妖が寄ってくるほど、誠一郎さんの怒りや憎しみは強かったんですね。何百年間もずっと、怒りに駆られながら松千代さんを捜していたなんて、可哀想に」
「オラにはあの人の気持ちがわかります。同じ立場ならオラだって、オラだって……」
ずびずびと鼻を鳴らしながら、千歳が泣いている。黒い妖は少しずつはがれ続け、膨れ上がっていた誠一郎さんの体はだいぶ小さくなってきた。でもまだその体には黒く小さいものがびっしりと貼りついている。
「誠一郎、下りておいで。私のところに来ておくれ。共にあの世へ向かおう」
返事はない。すると松千代君が涙をぽたぽたこぼしながら、震える声を張った。
「私はこの付喪神と約束した。誠一郎が私の話を聞き入れないなら、私はお前と一緒に斬られると。おそらくこの付喪神の手にかけられたら、父上と母上がいるあの世へは行けない。そのまま消えてしまうだろう。でも、それでもいい。お前がそのような哀れな姿でこの世に縛られるくらいなら、私はお前と共に消えたい」
松千代君の健気さと誠一郎さんを思う優しさに、僕は貰い泣きしている。千歳も翔君も小鈴さんも泣いている。
まだ全身を黒く染めている誠一郎さんが、ふわりと僕たちの前に飛び降りた。さらに黒いものがハラハラと剥がれ落ちて、着物に袴姿の三十代半ばの男性が現れた。
誠一郎さんは「松千代様……」とつぶやき、松千代君の前で片膝をついた。松千代君がぶつかるように彼に抱きついた。
「誠一郎、会いたかった。私はずっと洞穴の中で待っていた。結界が張られていたから、お前は私を見つけられなかったんだろうね」
「私が待っていてくださいなどと言ったばかりに……。申し訳ございませんでした! 松千代様、もう森の軍勢はいないのですね?」
「そうだよ、もういないんだ。だから二人で父上と母上のところへ参ろう」
「私は松千代様をお守りできませんでした。御館様は私をお許しくださるでしょうか」
「大丈夫。ずいぶん遅かったなって、笑って迎えてくださるよ」
誠一郎さんは膝をついて松千代君を抱きしめている。その誠一郎さんの体から、最後の黒いものが剥がれ落ちた。誠一郎さんの大きな背中に腕を回している松千代君が、僕を見た。
「統神家は約束を守ってくれました。感謝します」
松千代君がそう言い終えると、二人の姿が次第に薄くなり、消えてしまった。
二人の姿が消えた場所を見ながら、僕は涙をとめられないでいる。すると雨月が僕の頭を撫でてくれた。
「いい結果に終わってよかったな。春人は俺の自慢の善き主だ。どれ、涙を拭いてやろうか?」
「いいって。からかわないでよ。さあ、帰ろう」
「いや、まだやるべきことがある。この近くに誠一郎の骨があるはずだ。それを見つけて、憎しみの残滓を消さねばならん」
憎しみの残滓ってなんだ? と思っている僕に、雨月が説明してくれた。
「何百年も敵を恨んでいた誠一郎の憎しみの感情は、まだ骨に残っている。それが消えるまでは小者の妖が集まる。集落の者がそこに近づいたら、ろくなことにならない」
「オラ、黒い気配の場所がわかります。山のことならオラに任せてください」
千歳が涙を拭いながらそう断言する。僕たちは再び千歳の後ろに続いて山の中を進んだ。
もう僕とつないでいた小さくてひんやりした手はない。松千代君、どうか誠一郎さんとご両親、家臣の皆さんと、心安らかに暮らしてください。
そう心で繰り返しながら山を歩く。僕の後ろでは、翔君が榊原兄にせがまれて経緯を説明している。歩きながらしゃべらせなくても、後で教えてもらえばいいのに。翔君の息が切れているじゃないか。しょうがないお兄さんだな、榊原兄。
やがて……。
「あの辺りじゃないでしょうか。ちーっとばかり妖が飛んでいます」
千歳が見ている場所は、小規模な土砂崩れの跡だ。その上を黒くて小さい妖が数匹、何かを探すように飛び回っている。食べ物の周りを飛ぶコバエみたいだ。
5月5日(火)のできごと




