32 誠一郎
僕の言葉を聞いて、松千代君がパアッと明るい表情になった。
「一緒に行ってもいいの?」
「いいですよ。ただ、また戻ってもらうかもしれないんだけど、それでもいいですか?」
「かまわない! 外に出たいんだ。あの縄の向こうには出られなかったから」
「じゃあ、僕と一緒に行きましょう」
そう言って手を差し出したら、小さな手をつないできた。ちゃんと手に触れられるけど、雨月と同じで体温が低い。地縛霊とか幽霊とかそういう種類の存在なんだろうけど、この松千代君は不思議と怖くはない。
僕が先を歩き、松千代君が後ろに続く。前方に洞窟の出口が見えた。僕たちを見て「あ……」という顔になったのは雨月、千歳、小鈴さんだけ。榊原兄、笹山さんは「やっと戻ってきた」という安心した顔。翔君は僕の背後を気にしているけど、その表情を見る限り、松千代君をはっきりとは見えていないらしい。
見えていない人のために、僕はなんでもない風を装った。入るときは縄の端っこをまたいで入ったけど、松千代君はここをまたげるのか? と振り返ったら、松千代君は縄を見ながら動けずにいる。なるほど、この縄にはちゃんと効力があるんだな。
「笹山さん、縄をまたぐのは気が引けるから、この杭を今だけ引っこ抜いてもいいですか?」
「ええ、ちゃんと戻せばいいと思いますよ」
そう言われて右の杭を揺らして引っこ抜き、松千代君が通ってから元に戻した。雨月が僕を見ているから視線を合わせないようにした。我ながら小心者だ。
「ありがとうね、ハル坊。これで山に入る人が安心できるわ。何よりうちのお舅さんが喜ぶし落ち着くわよ」
「お役に立ててよかったです」
本当によかったのかどうかだよね。この子が別口の魂なら、むしろ事態を悪化させているような気がするけど、知らん顔はできなかった。
笹山さんはそのまま山を下り、僕たちは車でじいちゃんの家に向かった。
助手席に乗った松千代君は窓の外を楽しそうに見ている。後部座席の雨月は何も言わない。怒ってるんだろうなあ。
千歳は空気を読んだらしく、チラチラと松千代君と雨月を見てはいるが、黙っている。
じいちゃんの家に着いて車を下りたら、榊原兄の車から飛び降りるようにして翔君が駆け寄ってきた。
「春人さん、それ、なんですか? 黒いモヤモヤが人の形をしているんですけど、それが『執念』ですか?」
「ううん。夕べの執念とは別だそうだよ。そうだよね?」と雨月に聞いたけれど、雨月は「まずは家に入るぞ」と言ってさっさと中に入ってしまった。
松千代君は僕の手を握って一緒に家に入り、物珍しそうに家の中を眺めている。
全員が板の間に座った。松千代君もちょこんと正座している。
榊原兄のために僕は洞穴での経緯を説明した。榊原兄は「じゃあここにその松千代君がいるんですか! いやあ、統神君のおこぼれに預かれて嬉しいです」と喜んでいる。嬉しいのか、榊原兄。
「春人はなぜ、この子を連れ出したんだ?」
「だって、この子は何百年も自分の傅役? 世話役かな。その人を待っているって言うんだもの。外に出たがっていたし、可哀想だなと思ったんだよ」
「春人さんを怒らないでください。私がお願いしたんです。私は外に出られて嬉しいし、これで誠一郎を探しに行ける。助かりました」
そこで小鈴さんが口を挟んだ。
「昨夜遅くにこの家の周囲を徘徊していた妖が、その誠一郎さんってことはありませんかね。それはあまり都合がよすぎますか?」
「なんの能力もない私が言うのも恐縮ですが、この世には『巡り合わせ』というものが存在するんです。昨夜この家の周囲を歩いていた妖は、何か言っていたんでしょう?」
榊原兄に聞かれて、雨月が「繰り返し『違う、違う』と言っていたな」と答えた。
「それ、翔のことを松千代君と間違えたのではないでしょうか。同じ年頃の男の子ですし」
「俺は松千代のことは知っていた。この子が泣き声を上げるから集落の者たちが恐れ、封印されたと聞いた。この子ははるか昔に洞穴の奥深くに埋葬され、墓は建てられなかった。その理由もちゃんとある。だがそれを知っている者たちはもう、冥途へ旅立った」
松千代君はあの洞穴の中で一人ぼっちで泣いていたのか。もうそれだけで胸が締め付けられる。
松千代君によると、この子を追いかけていたのは織田信長に味方する軍勢だそうだ。
「この辺りの者にしたら、この子が気の毒だから洞穴に埋葬したものの、追っていた武士たちにそのことを知られて自分たちが咎められるのは避けたかったのだ。だが、この俺も誠一郎とやらの正確な居場所は知らん。昨夜ここに来たのが誠一郎かどうかも判断がつかん。妖の気配が強かった」
「その執念とやらは夜に来たのですか? そうなら私を今夜この家に泊めてもらえないでしょうか。その妖が来たら、誠一郎かどうかを私が確かめます」
「ひとつ聞くが」
そう言って雨月が松千代君の顔を覗き込んだ。
「昨夜の執念が誠一郎で俺の言うことを聞かなかった場合、俺はこの集落の民のために誠一郎を斬るぞ。それでもいいのか?」
「誠一郎だったら私が説得します。説得できなかったら、どうか私も誠一郎と一緒に斬ってほしい。私は誠一郎と一緒なら怖くはない。一人きりで誠一郎を待ち続けるのは、もう嫌なのです」
「承知した」
松千代君の覚悟を聞いて、僕は唇を噛んだ。僕が泣いてる場合じゃないのに、勝手に目が潤んでくる。すると、ずっと静かだった千歳が号泣し始めた。
「オラも一人で空き家にいたから、松千代さんの気持ちがわかります。オラは、こんなことなら付喪神になんてならなければよかったって、繰り返し思いました。人間が大好きで人間と仲良くしたいのに、ずっと一人で過ごす毎日はどれほど寂しかったか。だからオラ、どんなことをしてでも誠一郎さんを見つけてやりてぇです」
「お前が捜し回らなくても、あの執念が誠一郎なら今夜必ずここへ来る。翔の気配を感じてここまで来たのだ。本物の主がここにいたら、必ず来る。俺でもそうする」
雨月の言葉が僕の胸を刺す。僕を見つけるために雨月が山の中を捜し回っている場面を想像してしまった。目に盛り上がってきた涙を、袖で拭いた。
「こんな泣き虫で怖がりな主でも、俺にとっては大切な主だからな」
「もうやめて。泣かさないでよ」
僕が泣いたら千歳が再び号泣した。雨月が「やれやれ」と苦笑して、榊原兄に「俺たちはここにもう一泊するが、お前と翔はどうする」と尋ねた。
「我々も泊まりますよ。翔、それでいいだろう?」
「僕も泊まりたいけど、お母さんが心配しないかな。ここ、スマホが圏外だから連絡できないよ?」
「お兄ちゃんが集落まで下りて電話するさ。ついでに食料も買い足してこよう」
「やった! お兄ちゃん、ありがとう!」
こうして僕らは全員でじいちゃんちにもう一泊することになった。二台の車で山を下り、なんでも売っているあのお店で買い物をした。松千代君も一緒だ。
あの店は『スーパー小林』という名前だった。スーパー小林には、ありがたいことに野菜と肉、ソーセージなども売っていた。松千代君は物珍しそうに店の中を見回しているが、やはりお店の人には彼の姿が見えないらしい。
じいちゃんちに戻って僕が昼食の準備をしている間、千歳が松千代君の話し相手になっている。僕はそれを背中で聞いた。
松千代君のお父さんは望月源左衛門 滋時と言って、織田信長に従わなかったため、「一族を根絶やしにしろ」と言われた織田派の軍勢に攻め込まれたらしい。
誠一郎さんは松千代君を連れて山の中を逃げていたものの、敵軍に見つかってしまった。
「誠一郎は私に、あの洞穴で待っているように言って、敵を引き寄せて走っていきました。私を連れて逃げているとき、父上と母上はおそらく亡くなられたと誠一郎が言っていました。私にはもう誠一郎しかいないのです。いつまで待てば誠一郎に会えるんだろう。もういいんです。妖になっていてもいいから、誠一郎に会いたい」
今まで気丈に振舞っていた松千代君が、ポタポタと涙を落している。話し相手をしている千歳も泣いていて、僕も視界がぼやけている。小鈴さんもそっと涙を拭っているが、雨月は腕組みをして無表情に松千代君を眺めていた。だが、その雨月が松千代君に話しかけた。
「夜まで待たずに、こちらから会いに行ってみるか? 妖が見えない者もいるから、陽のあるうちに出かけたほうが安全だ」
「望むところです。私は一刻も早く誠一郎を捜したい」
「ではそうしよう。昨夜の執念の気配がどこにいるか、だいたいの方角ならわかる。もう一度言うが、俺が感じている妖の気配が誠一郎とは限らないぞ?」
「違っていたら諦めます」
料理の手を止め、僕たちは車に乗った。今度は雨月が助手席で、山の中の細い道を案内してくれた。
5月5日(火)のできごと




