29 バーベキューと小鈴の話
榊原さんがクールボックスからたくさんの肉と野菜を取り出した。バーベキュー用のグリルや炭は、雨月が荷下ろしを手伝っている。千歳も手伝っているけど、小鈴さんは外の流し場で翔君に手を洗わせている。
「俺が火をつけよう。得意だぞ」
雨月がそう言って庭の隅から乾いた小枝や枯れ葉を集め始めた。榊原さんはおそらく着火剤も持っている気がするんだけど、使わなくていいのかな。
「あれを使うと、俺は匂いが気になる」
雨月の手際はとてもよかった。着火用のライターだけであっという間に枯れ枝と枯れ葉が燃え上がり、そのうち炭にも火が付いた。千歳は「オラは家の中を掃除してきます」と言って、板の間の雑巾がけを始めた。
やがて炭が真っ赤になってから、雨月が「もう食材をのせていい」と言う。榊原さんが大きな密閉容器から肉と野菜をトングで取り出して、網の上に並べた。ジュウッと音がして、肉の焼けるいい香りが漂ってくる。
「わー、おなか空く匂いですね」
「統神君、肉のあとは統神君が好きな焼きそばもありますよ」
「あれ? 僕、焼きそばが好きだって榊原さんに言いましたっけ?」
「さっき荷下ろししながら、焼きそばの麵を見て雨月さんが教えてくれました」
うちではまだ焼きそばを出したことがないのに。
すると小鈴さんが会話に入ってきた。
「雨月さんは主の考えをこまめに読みますから。昔からそうでした」
「小鈴さんと雨月はいつの時代の知り合いなんですか?」
「雨月さんと最初に出会ったのは明暦三年です。私の主が大火に巻き込まれて亡くなった直後でした」
雨月は横でこの話を聞いているのに、何も反応しない。
「火傷をした主が他の怪我人と一緒にお寺へ運び込まれまして、私はずっと主に付き添っていたんです。でも、主が亡くなった瞬間に私は簪に戻り、お寺の板の間に落ちたんです。そのお寺に居合わせた雨月さんが私に気づいて、素早く私を拾ってくれました。雨月さんに拾ってもらわなかったら、私は誰かのものになり、すぐに売られたことでしょう」
「ごめん、僕のせいで悲しい思い出を話させてしまった」
翔君と清隆さんが驚いた顔をしているから、きっと初めて聞く話なんだ。失敗した。
「春人、俺たちは主との別れを何度も経験している。小鈴も俺も、そんな別れがあって今があるのだ」
「そうなんです。私が翔様の手洗いに厳しいのは、ただの吐き下しと思っていた年若い主が、コロリで亡くなったからです。それは文政五年のことで、私は箱根宿におりました」
「コロリって、コレラですよね? どこから日本に入ったんだろう」
「コロリは下関から始まり、東海道沿いに東へ向かって広がったんです。大阪では大変な数の人が亡くなったそうです。お上は江戸に入る関所を封鎖したので、江戸にはコロリが入らずに済んだのです。でも私の主は病を貰ってしまって……。あっ、ごめんなさい。せっかくのバーベキューなのに、悲しい話をしてしまいました」
翔君が首を横に振った。
「小鈴の昔の話が聞けて、僕はよかった。小鈴は江戸時代の大火も、コレラの大流行も、その目で見てきたんだね」
「はい。今まで何人もの主に仕えてきました。どの主も優しく心のきれいなお方ばかりでしたよ。さ、翔様、お肉が焼けました。お野菜もお召し上がりください」
「小鈴も一緒に食べようよ。野菜なら食べられるんでしょう?」
「はい。たんといただきますね」
小鈴さんは肉を食べないのか。うちの付喪神たちは肉が大好きだけどな。
小鈴さんはバーベキューグリルの隣に立ち、せっせと翔君に焼けた野菜や肉を取り分けている。「小鈴も食べて」と翔君に言われて、本当に野菜だけを選んで食べている。
突然、雨月が動きを止め、暗がりの一画に向き合った。手には刀を持っている。
「何かいるの?」
「何かの気配が。千歳、春人を頼む」
「はいっ!」
小鈴さんは翔君の前に立って、簪を構えている。雨月はすり足で横に動き、それから一歩前に踏み出した。
「そこの妖よ、主には我らがついている。お前の出番はない」
「オラもいるからな!」
僕らの周囲には電池を使ったランタンが三個置かれていて明るい。明るさに目が慣れているせいで、暗がりにどんな妖がいるのか僕には全く見えない。でも雨月と千歳には見えるらしい。身動きしようとして、いつの間にか全身を何かにやんわり包まれているのに気づいた。動けるんだけど、動きにくい。これなに!
そのうちカサッと葉ずれの音がして、それが顔を見せた。狐だ。大きさが鹿くらいあるから、本物の狐ではないとわかる。今まで僕が見た妖は黒くて輪郭がぼんやりしていたのに、これははっきりと狐の姿だ。
狐は雨月を睨みながら光と暗闇の境界線を動くけれど、それに合わせて雨月も動く。妖は光の中には入ってこない。
雨月がさらに一歩踏み出して「去れ」と低い声で命じた。すると狐の妖ははっきりと僕を見た。そして僕を見詰めたまま言葉を発した。
『善き主を得たな。羨ましきことよ』
それだけを言って、狐の妖は暗闇に溶け込むように消えた。同時に、僕を包んでいた柔らかい膜のようなものも消えた。
「ふう。びっくりした。雨月、ありがとう」
「春人はあいつに気に入られたな。あれは昔からこの辺りにいる妖で、子供の頃の幸之助を狙ったこともあった。幸之助に続いて春人も狙ったか。さあ、肉が焦げてしまう。春人、食べろ」
「う、うん」
迫力があって美しい妖だったな。今まで見てきたおぞましい妖とは全然違っていた。雨月が咎めるような顔で僕を見たから、「なに?」と聞いたら……。
「あんな僕もちょっといいな、みたいな顔をするな」
「そんなこと思ってないよ。美しいと思っただけだよ」
小鈴さんが「ぷっ」と笑い、翔君と清隆さんも笑う。確かにちょっといいなとは思ったけど。
その後はバーベキューをしながら、雨月が狐の妖の話をしてくれた。
あれはこの周辺の山々を治めている妖で、地元の人々は「山神様」と呼んでいるそうだ。人に悪さはせず、むしろ人に悪さをする小者の妖を食べているらしい。
昔の人が山の中腹に祠を建立して、集落の人たちは今も、山中での作業の安全を祈願してお供えを置くそうだ。
あ! 翔君はどうした? と振り返ると、翔君は地面にぺたんと座り込んでいた。小鈴さんがその肩を抱いて、背中をさすっている。
「翔君、大丈夫?」
「大丈夫ですけど、びっくりしちゃって。これ、腰が抜けたってやつかな。立てないです。あの狐、すごく大きかったし、しゃべりましたね」
「翔様、あれは狐の姿をした妖です。でも、悪いものではないようでした」
少し間を置いて、翔君が「ははっ」と笑う。
「すごいや。こんなことがあるんだね。クラスのみんなが僕の陰口を言っても、もうどうでもいいや。ここですごいことを見たし、聞いちゃったもん。意地悪してくる連中にはできない経験でしょう?」
「翔様の悪口を言う者の言葉など、狸が寝言を言っていると思えばいいのです。気に病む価値などありません!」
「狸の寝言か。そうだね。そう思うことにするよ」
翔君は小鈴さんの手を借りて立ち上がると、肉を頬張った。榊原家が用意してくれた肉は柔らかくて美味しい上等な肉だ。量もたっぷり。焼肉と焼き野菜のあとに締めの焼きそばも食べた。
千歳と榊原さんが炭火の始末をしている間に、翔君は板の間に布団を敷いて眠ってしまった。僕と雨月は台所で網を洗っている。
「妖が現れたとき、春人はなんともなかったか?」
「柔らかいものに体を包まれたような感じがした」
「やはりそうか。春人をよほど気に入ったのだな。心の弱い者なら魅了されて、ふらふらとアレに近寄っていただろう」
「僕は心が弱い人間なんだけどなぁ」
「気づいていないようだが、春人の心はかなり強い。強くて優しくて清いのだ。アレが言っていたように、『善き主』だ。誇っていい」
やっぱり雨月は僕じゃなくて父親みたいだ。
「ねえ雨月、僕があの狐に近寄ったら、どうなっていたの?」
「山の神がどうしたいと思っていたかはわからん。だがもしかすると、この土地から離れず、ずっと山の神と一緒に近隣の山を守ることになっていたかもな」
それは困る。僕は区役所の仕事を気に入っているんだから。
すると雨月はやんわり微笑んで、「そうだな」と言う。
5月4日(月)夜




