28 桜でんぶと遠出
朝一番でスーパーへ買い物に来た。スマホで桜でんぶの材料をチェックしてカゴに入れていると、ひそひそ声が聞こえた。
「ねえ、あの人変じゃない?」
「あ、やっぱり? 私もそう思ってた。さっきからずっとグルグル歩き回ってるよね」
「でもカゴに何も入ってないのよ」
「万引きとか?」
どの人のこと? と周囲をさりげなく見まわしたら、いた。三十歳くらいの男性だ。無精ひげを生やし、よれよれの服装。髪も伸びでボサボサで、暗い表情で店内を歩いている。
その男性は、背中に黒いものをたくさん背負っていた。いや、しがみつかれていると言うべきか。
「雨月、あの黒いのは何?」
「小者の妖だ。あの男は心に強い邪心を抱えているのだろう。妖はそういう人間を好むからな」
「普通の人なのか。あの人はあれで大丈夫なの?」
「大丈夫ではない。見てみろ、妖が体に食い込んでいる。すでに心が影響を受けているはずだ」
「だったらなんとかしなくちゃ」
「無駄だ。俺があの黒いのを引き剥がしたところで、あの者の心根が変わらない限り、すぐあの状態に戻る」
でもさ、妖に心を支配されたらどうなるんだろう。ここで見逃したら、誰かがあの人の被害に遭うのでは?
「お前はどうしてそう、見知らぬ他人のことを心配するのか」
「兄貴、オラがあれを蹴散らしてもいいですか? やったことはないですが、いけると思います」
「千歳がやりたいなら行けばいい」
「へい、兄貴。では行ってきます」
ええ? 千歳なら許すの?
雨月は僕の心を読んでいるはずなのに、知らん顔をしている。
僕が不満を抱えて雨月を見ると、頭をポンポンされた。それでなんでもごまかせると思わないでほしい。
僕と雨月がそんなやり取りをしている間に、千歳がにこにこしながら男性に近づいて声をかけた。
「あっれえ? お久しぶりです! お元気でしたか?」
「ああ? あんた誰だ?」
「やだなあ、オラですよ。その節はお世話になりました」
陽気にしゃべりながら千歳は男性の背中に腕を回して、妖の集合体を一気に引き剥がした。剥がした勢いでその集合体を床に叩きつけると、大きな塊だった妖は散り散りバラバラに飛散した。
「だからお前なんか知らねえ。人違いだって!」
「ありゃ。そう言われたらそうかもしれねえです。失礼しました。すんません」
再びニコニコしながら千歳が戻ってくる。明るい千歳らしい上手い対処法だった。
跳び散った小さな妖は大半が姿を消したけれど、早くも二匹の妖が男性の背中と項にしがみついている。確かにこれではきりがないか。
「だから言ったろう。あの男の心の醜さが妖を引き寄せているのだ」
「でも、あの人の表情から険しさが少し消えているよ。千歳が妖を払った意味はあったんじゃない?」
「まあ、多少はな。そういえばお前に再会した時、妖が一匹もくっついていなかったな」
「それは春人さんの心がきれいだからですよ」
「そうなの?」
「まあ、そうだな。春人は心が優しくて清らかだ」
「おっ? 今日の雨月は優しいんだね?」
雨月が僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「春人の優しく清い心が、春人自身を守っていたのだ。よかったな」
「あ、うん。ありがとうね」
雨月に褒められるとすごく嬉しい。あんまり褒められずに育った僕は、照れくさくなってしまう。今日の雨月はぶっきらぼうだけど優しい父親みたいだ。
「父親ではない。俺は僕だ」
知ってるってば。
買い物を終えて桜でんぶを作ることにした。まずは鱈を四切れ茹で、骨と皮を取り除いた。レシピサイトによると水を変えながら水中で身をほぐすらしい。
「色をつけるのか?」
「うん。母さんが作っていたのは食紅を使ってたから。じいちゃんちのは桜色じゃなかったの?」
「あの村では食紅など売っていなかったから、鱈の色のままだったな」
「そうなんだ? じゃあ僕が食べていたピンクの桜でんぶは、母さんの好みなんだね」
食紅をごく少量、水で溶いて一滴ずつ加えながら色を決めた。ほんのりした桜色だ。砂糖はレシピより少なくした。
四切れもほぐしたから、桜でんぶが大量にできた。小分けにして冷凍すれば、思い出の味をしばらく楽しめる。
春のメニューは桜でんぶの他に鶏もも肉と玉ねぎの照り焼き、しし唐のカツオぶし和え、ほうれん草のお浸し。お味噌汁はジャガイモと油揚げと長ネギだ。
三人で「いただきます」と声を揃え、料理に箸を伸ばした。
雨月が桜でんぶをたっぷりのせたごはんを頬張っている。クールでかっこいい雨月と桜でんぶの組み合わせが、なんだか愉快だ。千歳は「うんまっ! 桜でんぶ、うんまっ!」と言って大きな口でかきこんでいる。
桜でんぶは魚のうま味が砂糖の甘さと合わさって、優しい美味しさ。僕にとってのおふくろの味だ。母さんが嬉しそうにこれをごはんと一緒に食べている表情を思い出した。味と記憶が結びついて残っていたんだなぁ。
ぼくは桜でんぶの手間を思い返しながら母さんのことを考えた。
母さんはなぜ父さんを選んだんだろう。付喪神使いの統神家のことを、結婚前にちゃんと詳しく父さんに説明したのかな。父さんは科学で説明できないことに対して、全部否定的だったと思うんだけど、どうやって納得させたのか。
そして、母さんは父さんと結婚して、幸せだったんだよね? 父さんと愛し愛されていたんだよね?
そうじゃなかったら、母さんが可哀想だ。
「夫婦の間のことは、その親にも子供にもわからないことがあるものだ」
「そうだろうけどさ。短かった母さんの人生が、幸せだったらいいなと思っちゃうんだよ」
「それは俺も同じだ。俺はお前に一生幸せでいてほしい。俺はそのために全力を尽くすからな」
「オラだって! 春人さんのために全力を出します!」
もう、この付喪神たちはいちいちグッとくることを言う。
「じゃあさ、連休の間に何か楽しいことをしようよ。でも、どこも混んでるんだよねえ」
「春人は車を運転できるんだろう?」
「できるよ。なんで?」
「列車の混雑が嫌いなら、車で朔の家に行かないか? 車は借りればいい」
あー、なるほど。その手があったか。そして雨月はレンタカーを知っているのか。テレビから情報を得ているのか? それとも僕の脳内の知識からか?
「いいよ。三人で行こうか。一般道を走れば渋滞も回避できると思う」
そう決まったところで、榊原さんから電話が来た。
『翔のことですっかりお世話になりました。お礼と言ってはなんですが、我が家でバーベキューをしませんか』
「せっかく誘っていただいたのに申し訳ないんですけど、これから祖父が住んでいた山の家に出かけるんです」
『そうでしたか……。統神君、それ、私と翔もご一緒できませんか? 私たちの宿は取りますので、そちらでバーベキューはいかがです?』
「いや、部屋はあるからうちにどうぞ。そもそも宿は近くにありません。布団は持参してもらうほうがよさそうだけど」
『ではぜひ参加させてください! 私と翔は私の車で参加します。布団も持っていきます』
二台の車で山の上の家を目指すことになった。
山の中の一軒家に着いたのは夜の七時を回っていた。小鈴さんは簪の姿で移動していたが、じいちゃんちに着いたら姿を現した。今日はジーンズに白いコットンセーター姿だ。
その小鈴さんがじいちゃんの家を見回しながら「ここは清い気に満ちていますね」と言う。山の中で空気が清々しいとは思っていたけど、「清い気」とは?
雨月が「春人にはまだ見えないか」と言う。
「ここは山の気が収束して天に昇っていく場所だ。統神家の先祖は、それが気に入ってこの場所に家を建てたのだ」
「山の気が収束して天に昇る……」
「春人もそのうち見えるようになる」
「そんなものが見えるようになるなんて、僕はそのうち仙人になる人みたいだね?」
「春人はおっとりと浮世離れしているから、案外早く仙人になれるかもしれないな」
雨月は笑いながらそんな冗談を言うと、全部の雨戸を開け放って網戸にした。
「今のは冗談だよね? 僕、この若さで仙人になんてなりたくはないんだけど?」
そう聞いたのに、雨月は笑っているだけで答えない。
清々しい風が家の中に流れ込んできた。どこかで気の早い夏の虫が鳴いている。
5月4日(月)のできごと




