26 僕が一番嬉しいこと
畳の上に、小鈴さんが現れた。
二十歳くらいの、見るからに気が強そうな女性だ。胸まで届く長い髪は毛先がカールしていて暗い茶色。白いゆったりしたズボンに薄紫色の丸首のサマーニットという服装だ。翔君が目を輝かせた。
「わあ、僕が想像していたとおりの人です!」
なるほど、翔君はこういう服装を想像していて、小鈴さんはそれに従ったわけだね。
「おや、ちょうどいいのか悪いのか、妖が来たわ。ここには付喪神使いが三人いますものね。小鈴、あなたはあれを倒せるかしら?」
「はい。お任せください!」
庭の植え込みの上に、ぼんやりと黒い小さなものが三つ浮かんでいて、ふよふよと漂いながらこちらに向かってくる。
小鈴さんは平打ちの簪を握りしめて庭へ向かった。
スッと雨月と千歳が立ち上がって続いたのは、小鈴さんが仕留めそこなった場合に備えるのだろう。
小鈴さんは空中にいる妖の下に立つと、一度しゃがんでから跳び上がった。ジャンプがとんでもなく高くて、(ああ、小鈴さんも人間じゃないんだよな)と今さらながらに思う。榊原さんは口を開けてぽかんとしている。
小鈴さんは高く跳び上がり、頂点で簪を横になぎ払う。その一撃で二匹の妖が消えた。着地した小鈴さんは、トランポリンでも使っているかのように、もう一度跳躍する。今度もさっきと同じくらいの高さまで跳び上がり、髪をなびかせながら妖を上から突き刺した。
妖は消え、翔君が興奮した様子で僕を見た。
「見ましたか? 小鈴さん、すごいですね!」
「すごいね。僕も驚いたよ」
小鈴さんが「いかがです?」と言うようにこちらを見ている。雨月と千歳は周囲を見回してから、ひと足先に室内へ戻った。続いて小鈴さんも。
「小鈴の働きは、まあまあだった」
「雨月は厳しいのね。私、結構上手くやれたと思うけど」
「あの程度の小者を倒しただけで調子に乗るな」
二人のやり取りで小鈴さんと雨月は知り合いなのを思い出した。二人はどんな主に仕えて、どんな世の中を見てきたんだろう。
雨月が「そのうちにな」と言う。雨月が話してくれるのを楽しみに待つよ。
透子さんがパチパチと拍手した。
「小鈴、よくできました。立派でしたよ」
「ありがとうございます、透子様」
「翔さん、あなたの僕はいかがでしたか?」
「強くてかっこよかったです! 本当に小鈴さんが僕の僕でいいのかなって思いました」
「私は翔様にお仕えできることが嬉しいのです。翔様、どうぞよろしくお願いいたします」
小鈴さんが深々と頭を下げて、翔君が慌てている。榊原兄は付喪神の人ならざる動きに圧倒されたらしく、無言だ。
「統神さん、榊原さん、ちょっといいかしら。大人だけで話したいことがあるんです。小鈴、翔さんを頼みます」
「はい、透子様」
僕たちは二つ先の部屋に案内された。八畳の部屋の床の間に、芍薬が活けられていた。
「統神さんは、私が翔さんに血の契りを勧めたことを、拙速だとお考えでしょうね」
「正直に言うと、なぜ急ぐんだろうと思いました」
「大切な物事を決めるとき、熟慮は必要です。でもね、熟慮という名に隠れて、計算になってしまうことも多いのです」
「計算はいけないことでしょうか」
「いけなくはないわ。ただ、その時の計算が、十年先二十年先もずっと正解であり続けるなんて保証はないんです。あの二人は互いに主従関係になりたがっていた。それは、大人の計算を蹴散らすくらいに貴重なことです」
そこで透子さんがため息をひとつついた。
「それともうひとつ、私がことを急いだ理由があります。私くらいの歳になると、明日が必ず来るとは限りません。私が旅立てば、この家と土地、蔵の付喪神たちは、全て甥のものになるでしょう」
武具だけを持ち去るような人が非戦闘系の付喪神たちをどう扱うか。考えればすぐわかる。
「私には息子がおりました。付喪神使いとして高い能力を持っていたのですが、息子は御物部家の役目を嫌って アメリカの大学に進み、そのままアメリカに住み着いてしまいました。そして……高い能力がありながら付喪神使いにならず、主としての幸せも知らないまま亡くなりました。レストランで食事中に、ギャング同士の銃撃戦に巻き込まれたの」
「え……」
「息子の人生は二十八年で幕を閉じました。その場に付喪神の僕がいたら息子は死なずに済んだのではないかと、私は数えきれないほど繰り返し後悔しました。事情が分からない幼いうちに血の契りを結ばせればよかった、とも思いました」
「そういうことでしたか」
「十歳の翔さんならこの先長く小鈴と主従関係でいられます。それを歓迎すべきことだと思いました。それが主歴六十年を超える、私の考えです」
僕は主従関係が一生続く大変さにばかり目を向けていた。同時に僕や翔君の人生が八十年、九十年と続くことを前提にして。
ところが透子さんは逆に、人生が短く終わってしまう可能性に目を向けていた。
雨月は? 翔君と小鈴さんのことをどう思ったの?
「どうも思っていない。俺は何人もの主に仕え、他の主従関係も見てきた。そのすべての主従関係が違っていた。だから俺は、主従関係の正解などないと思っている。今の俺の願いは、春人に幸せな人生を生きてほしい、それだけだ」
「オラもです。春人さんが楽しそうにしていること、春人さんの笑顔を守ることが、オラの願いです」
透子さんがすごく優しい笑顔でうなずいている。
こんないい付喪神と出会えて、僕は幸せだな。二人に出会う前、僕は誰とも深くかかわらず、波風が立たない日々を最良だと思っていた。今はあの頃の日々が満たされないものだったと知っている。今は本当に毎日が楽しいよ。
「怖がりで泣き虫なところは、五歳からずっと変わっていないが」
「それを言わないでよ」
僕たちの会話に微笑んでいた透子さんが話を続けた。
「翔さんのことは、私が見守ります。相談に乗り、助言もしましょう。統神さんと雨月さん千歳さんも、翔さんを見守ってくれませんか」
「僕のようなひよっこでよければ」
僕がそう答えると、透子さんと椿さん、葵さんがそれぞれくすっと笑った。
「統神さんは自分がどれほどの能力を持っているか、気づいていないようね」
「はい?」
「雨月さん、あなたは少々統神さんに厳しすぎるのではなくて? 若い主に自信を持たせるのも僕の役目ですよ?」
雨月は苦笑して答えない。
「私みたいな古狸には、統神さんと雨月さん千歳さんの結びつきの強さが透けて見えるの。統神さんが雨月さんと再会したのはいつかしら?」
「再会したのは三月の二十八日です」
「今日が五月四日だから……あら、ひと月ちょっとしかたっていないわ。そんな短期間でそれなのね」
「それって……?」
「いずれ統神さんにも見えるようになるでしょうけれど、統神さんと雨月さんの結びつきがとても強く太いことが見えるんです。統神さんの付喪神使いの能力の高さと、雨月さんとの相性の良さ。その両方でしょうね」
そうなの? そんなこと、雨月はひと言も……。
「ひよっこ主が調子に乗っては困るからだ」
「兄貴ぃ……春人さんに厳しすぎますって」
そうだ、今、あれを言おう。万が一、透子さんの息子さんのようなことがあったら、僕は後悔を抱えて旅立つことになってしまう。
「雨月と千歳に言っておきたいことがあるんだ。僕が一番嬉しいのは、雨月が僕の料理を美味しいって言ってくれることと、千歳がもりもりと食べてくれることなんだ。それが料理好きな僕にとっての幸せだよ」
5月3日(日)のできごと




