18 二つの世界が重なる場所で
葵さんの手鏡の光は、今度はもがいてうごめく妖に向けられた。光を受けて八重桜の花が弱く光る。すると妖は、花が貼りついているところから溶ける。今までよりも格段に溶ける速さが上がった。
「うわっ」
ジュウジュウという音しかしていないのに、僕の頭の中で「ぎゃああ」という悲鳴が響く。「ううう」という苦しげな呻き声もする。これ、人間の声だ。頭の中で歪んで響いているけど、人間の叫び声に間違いない。
繰り返し叫び声と呻き声をあげながら、妖は小さくなっていく。もう終わりか? と思っていたら、小さくなった妖の体から、鞭のようなものが一直線に、雨月の目を狙って飛び出した。だけど千歳がザクッ!とその根元を切り落とした。鞭のようなものは八重桜が敷き詰められた地面に落ち、ゆっくり溶けていく。
「オラの前で兄貴を狙うなんて、百年早いわ」
千歳が鼻息荒く言った。それが妖の最後の抵抗だったらしい。妖は僕らが見守る中、全て溶けた。
葵さんがそれを見届けてから、「はぁ」と小さく息を吐いてしゃがみ込んだ。そして手鏡の姿になってコトリと音を立てて板の上に落ちた。
透子さんが素早く手鏡の葵さんを拾い上げ、胸にかき抱いた。そして震える声で話しかける。
「葵、葵、返事をしておくれ。どうしましょう、葵が返事をしないわ」
椿さんが透子さんの肩を抱いて「透子様、葵は大丈夫です」と言う。
雨月が歩いてきて、透子さんに話しかけた。
「案ずるな。力を使い果たして眠っているだけだ」
「そうですよ、透子様。葵はまた元気になれます」
透子さんが、「それならよかった……」と息を吐いた。
雨月は髪が少し乱れているだけで戦いの疲れが見えない。千歳はまだ初陣の興奮を纏ったまま、周囲を見まわしている。
「だがこの八重桜には無理をさせた。今年はもう、花を咲かせられないだろう」
「それはご心配なく。葵が人の姿に戻りましたら、この八重桜に力を注ぎます。八重桜はもう一度つぼみからやり直すことができるでしょう」
椿さんが自信ありげに言う。
「葵さんは力を使い果たしたばかりなのに、すぐにまた力を使って、大丈夫なんですか?」
「問題ありません。透子様のおそばにいれば、私たちは元気になれるのです」
透子さんが立ち上がり、頭を下げた。
「統神家の皆様、このたびはお力をお貸しいただき、本当にありがとうございました。このご恩は決して忘れません」
透子さんはそう言ってからすこしよろめいた。椿さんが「透子様!」と言ってその体を支える。雨月が「精気を吸われて弱っているのだろう。今夜は安心して眠るといい」と言った。
椿さんが透子さんを抱えている。
「透子さん、ご無事で何よりでした」
「統神さん、ありがとうございました」
透子さんは葵さんの手鏡を抱え、何度も振り返ってお辞儀をして大通りへと向かった。
境内には僕たちだけが残った。大量に散った八重桜の花は消えていた。
「春人、帰るぞ」
「雨月、千歳、僕の願いを聞いてくれてありがとう」
「春人と千歳だけで送り出すわけにはいかないからな」
「オラは夢中になって動いているうちに終わりました」
雨月がポンと千歳の肩を叩いた。
「初陣にしてはまあまあの働きだった」
「ありがとうございます、兄貴」
「春人、お前も覚悟を決めて場に臨んだ。立派だった」
「僕はただ隠れていただけだよ」
そうは言いつつ本当は、万が一雨月と千歳が妖に倒されたら、透子さんを背負って妖から逃げるつもりでいた。雨月たちが倒れることなんて想像するのも嫌だったけど、そうする覚悟でいた。
朝まで逃げ続ければ、とりあえずはなんとかなる。だけどその先は? 仕事はどうする? 僕のマンションはすぐに見つかってしまうだろうから戻れないんじゃないの? と、繰り返し同じことを考えていた。
考えたけど答えは出なかった。そんな答えは僕の中になかった。
だけど目の前で雨月たちが戦っているんだもの、透子さんを見捨てて僕だけが安泰な場所に立っているわけにはいかない。僕も全力で透子さんを守らなきゃって、それしか考えなかった。
透子さんの精気を吸い尽くされたら、次は僕が狙われるのにね。
落ち着いた今になって考えると無策もいいところだったし、いつもの僕じゃなかった。
でも、そんな自分を愚かだと笑う気にはなれない。雨月と千歳は僕の願いを聞いて戦ってくれた。それを望んだ僕が、透子さんを見捨てることはできなかった。
「あの妖は何だったの?」
「帰りながら話そう」
僕たちは八重桜に頭を下げ、境内を後にした。
雨月の話では、液体金属みたいだった妖は、人間の未練の集合体だそうだ。
「東京の周辺には合戦場だった場所がいくつもある。あの妖は若くして散った者たちの未練が集まったものだ。アレは『もう一度自分の体を得て人として生きたい』と願いながら、彷徨っていたのだ。そのうちに、御物部透子を見つけだのだろう」
「アレが人間に戻れるなんてことあるの?」
「ない。だがその思いに憑りつかれていた。アレは一度強い精気を見つけたら、それを吸い尽くすまで離れない。未練はとても強い感情だから、アレは透子の精気を吸うことに囚われて何も考えられなかったのだ。俺は戦国の世でアレの同類に何度か出会い、斬ってきた」
あの妖が成仏したのか消えて無になったのか、雨月にはわからないと言う。
「沢花神社を選んだのは、なんでなの?」
「あの神社は今でこそ無人だが、昔は神職が常駐していた。その神職が幸之助の縁者で、あの八重桜は幸之助が手づから植え、俺がこの神社を守るよう命じた木だ」
そんな過去があったのか。その遠い親戚の子孫は、今も東京にいるんだろうか。じいちゃんがいたら、わかったかもしれないな。
「俺は八重桜に力を注ぎながら、『今こそお前の助けが必要だ』と語りかけた。あの木はよく応えてくれた。春人、俺は腹が減った」
「雨月が腹が減ったなんて言うのは、初めてだね。漬けにしてあるマグロが冷蔵庫にあるから、漬け丼を作るよ。漬け丼のお茶漬けでもいいね」
「どちらも旨そうだ。山葵を多めにして食べたい」
「わかった」
「春人さん、オラも食べたいです!」
「千歳もたくさん食べて。大活躍だったもんね」
歩きながら、雨月が僕を優しい目つきで見た。
「なに?」
「お前は弱いようでいて、やはり肝が据わっている。透子を背負って走るつもりだったのだな」
「そりゃそうだよ。僕が言いだしたことだもの、僕だけ逃げるわけないでしょ?」
「アレを見てもそう思える者は、ほとんどいない」
そうかな。それより僕は、雨月と千歳が消えた部屋を想像して絶望したよ。だから戦いの最中に、「僕の精気を必要なだけ、いくらでも雨月と千歳に渡します。だから神様、どうか雨月と千歳を守ってください」と心の中で繰り返し祈っていた。
雨月がいつだったか「命に換えてもお前を守る」と言ったのは、あんな気持ちだったんだろうか。
二人の付喪神は漬け丼を食べ、旨い旨いと褒めてくれた。
もしかしたら今頃、透子さんを背負って夜の東京を逃げ回っていたかもしれないと思うと、目の前が暗くなるほど恐ろしいよ。
でも、漬け丼を美味しそうに食べている雨月と千歳を見ていたら、無事に生還できた喜びにじんわりと包まれる。
僕は雨月と再会するまで、分相応に穏やかに生きられればそれで十分だと思っていた。
だけどそんな凪のような日々は、雨月と出会って一変した。
人の世界と付喪神や妖がいる世界。二つの世界が重なる場所に、僕はいる。
今はまだ頼りないひよっこ主だけれど、いつかは雨月たちから誇らしいと思ってもらえる主になりたい。
付喪神たちの戦いを見て、そう思ったんだ。
4月7日(火)のできごと。




