15 千歳の悔しさと椿と葵
「じゃあこうしよう。日替わりで僕の背中を流してほしい」
「春人が望むならそうしよう」
「ありがとう、雨月。では今夜は千歳に背中を流してもらうよ」
「はい! 全力でお背中を流します」
「千歳の全力は少し怖いな。ほどほどにお願いするよ」
僕が狭い浴室でシャワーを浴び、腰にタオルを巻いてから洗面所へ「いいよ」と声をかけると、千歳が神妙な顔で入ってきた。上半身裸で、雨月よりだいぶ筋肉が分厚い。
千歳は背中を洗い始めて早々に、「春人さん、オラ、あの手鏡を手助けしてやりてえです」と言う。
「その理由を教えてくれる?」
「オラ、今でも忘れられないことがあります。オラが自由に動けていたらと思うような、悔しいことです」
あの家が空き家になるまでの経緯を、千歳が話してくれた。
四代目が老いて娘の嫁ぎ先へ同居した。それがあの空き家である。息子である五代目は地方で林業に勤しんでいたものの、相棒にはチェーンソーを選んだから千歳の出番はなかった。
四代目は年に数度、千歳を取り出して手入れをしてくれたが、ある年そんな四代目の前に五代目が現れた。驚くほどやつれた息子を見て四代目は驚き、何があったのかと問いただした。
伐採の現場で世話になっている先輩が、「大きな儲け話の仲間に入れてもらえたから、お前も入れてやる」と誘ってきた。五代目は(なんだか怪しげな話だ)と思ったものの、先輩の話を断れずに仲間になった。
結果、それは東京にいる不在地主を利用した、盗伐詐欺だったそうだ。
先輩は不在地主に「不要な木を間引きする」と言いつつ、実際は杉と檜の古木を選んで盗伐し、売り払った。
林業組合の知るところになった頃にはもう、先輩は売り払った代金を持って姿を消していて、五代目は東京にいる地主から賠償を迫られた。五代目は姉と父のいるあの家に転がり込んだが、すぐに追う側に見つかった。彼らは連日のように家を訪れては、金を返せと凄む。
四代目と五代目と娘夫婦は大金を払えず、全員が心身ともに疲れ果てて夜逃げをすることになった。
四代目は千歳を持って逃げようとしたが、娘さんに「持っていくのは必要なものだけにしてよ」と叱られて、千歳は残された。
夜逃げは昭和四十八年のことらしい。金の取り立て方がえぐかったと言われる時代だ。
「オラが自由に動けて話すことができていたら、力になれたと思うんです。さっきの手鏡たちだって、主を助けられるなら助けているに決まっています。それができないから春人さんに頼んだんです。だからオラ、あの手鏡たちと主を助けてやりてえです」
「千歳の気持ちはわかるよ」
「春人さんの守りは兄貴にお願いして、オラが手鏡の主を助けるっちゅうのは許されないでしょうか」
突然、お風呂場のドアが開けられた。雨月が腕組みをして千歳を睨んでいる。
「こんなことだろうと思っていた。千歳、僕にしてもらった恩を忘れたか」
「忘れてねえです! でもオラ……」
「ねえ雨月、僕は今、そんなに狙われやすい状況なの?」
「そうだ。詳しく説明するから、まずは風呂を済ませろ」
お風呂から上がり、雨月の説明を聞いた。
付喪神使いは僕を得ることで、より力を増して妖を引き寄せてしまう。僕が二人になった今、僕はいっそう用心しなければならない。これまで小者しか現れていないが、いずれは必ず強く大きな妖も来るだろうということだった。
「手鏡たちの主は僕の戦う力が弱いことも、二人の付喪神を僕にすれば危険が増すことも、本人または親が全て承知で血の契りを交わしたはずだ」
「なんで断言できるの?」
「付喪神使いが何も知らないまま育つことはない。春人は例外中の例外だ」
「諸々承知の上で手鏡の付喪神を選んだんだから、自分でどうにかしろってこと?」
「そうだ。同じようなことが起きるたび、全員を助けるつもりか? そのたびに春人は危険にさらされる」
僕は「質問」と言いつつ左手を挙げ、雨月がうなずいた。
「雨月たちが戦いに出ると、なんで僕が危険になるの?」
「俺と千歳が人の姿をしていられるのは、春人の近くにいるときだけだ。今はまだ一町以上離れれば、俺たちは刀と斧に戻ってしまう」
一町ってどのくらいの距離だっけとスマホで調べたら、百九メートルだった。
あれ? カフェの店長の家は百メートル以内にあるってこと? さっきの付喪神二人組の主の家も近いの?
「店長の意識に入り込むだけなら、そこそこ離れても問題ない。さっきの付喪神は、主との関係が古いのだろう。長い年月で培われた絆が強いから、離れても人の姿でいられるのだ。春人と俺たちもいずれああなる」
そういうことか。僕は雨月が戦うなら、ギリギリの距離まで離れて待っているより雨月と同じ場所にいたほうが安心だな。
「お前はそう考えると思った。敵の強さがわからないのに、春人を連れて出向くわけにはいかない」
「今からでも彼女たちの居場所がわかる?」
「無理だ。付喪神がなんでもできると思うな」
「すみません」
もう彼女たちに会う手段はない。気の毒だけど仕方ないのか。戦うのは雨月だ。僕が駄々をこねるわけにいかない。
翌日、僕たち三人はそれぞれの仕事に向かった。
午前中、たくさんの質問や相談を処理し終えて、そろそろ昼休みの時間。年配の女性に寄り添いながらあの二人組が入ってくるのが見えた。
彼女たちが職場の人に妖云々の話をするとは思えないけど、急いで彼女たちに駆け寄った。
「どうしました?」
「あなた様にお会いするために来ました。このお方が私たちの主です」
「初めまして。御物部 透子と申します。この子たちの主です。本日は謝罪に参りました。少しお時間をいただけますでしょうか」
「統神春人です。時間はあります。こちらへどうぞ」
昼ご飯は諦めて、庭のベンチで話を聞くことにした。すると御物部 さんが「昼食の時間にお邪魔しましたので、これをどうぞ。お口に合うといいのですが」と言って、赤いブラウスの女性が持っていた風呂敷包みを差し出した。
風呂敷の中は小ぶりな重箱で、蓋を開けると見た目も美しいご馳走が詰められている。筑前煮、だし巻き卵、海老フライとタルタルソース、ほうれん草の胡麻和え、豆ごはんの俵型おにぎり、キュウリの糠漬けと沢庵だ。
「わ、ご馳走ですね。遠慮なくいただきます」
「どうぞ召し上がれ」
さっそく料理を口に運んだ。どの料理も優しい味付けで、丁寧に作られた母親の手料理って感じだ。しみじみ美味しい。
それにしてもだ。僕は以前から統神という苗字を大仰だと思っていた。だけど、どう書くのか教わった御物部という苗字もかなりのものだな。
「私のことはどうぞ、透子とお呼びください。苗字が大げさですので」
「あ、いや、そう思っていたわけでは」
慌てる僕を見て、透子さんがコロコロと笑う。透子さんは七十歳くらいの、上品で優しそうな女性だ。
「この二人は椿と葵です。この子たちが無礼なことを致しました。私のためを思うあまりのことです。どうかお許しください」
透子さんは美しい銀髪の頭を深く下げた。
「僕のお二人の気持ちはわかります。僕も詳しい話を伺いたいと思っていました。それと、僕以外の付喪神使いに初めて会いました。僕は自分の力のことも付喪神のことも、つい最近知ったばかりなんです」
「まあ……そうでしたか」
透子さんは目を見開き、驚いている。僕がお弁当を食べながら「それで、透子さんを襲っている妖というのはどんな感じなんですか」と水を向けると、三人が補い合って説明してくれた。
「このところ深夜になると、私の寝所に毎晩妖が訪れます。最初は家の外、次は寝所の襖の向こう側に現れるだけで去りましたが、先週あたりからは襖の内側に入り込むようになりまして。この子たちが必死に妖を防いでくれているのですが力及ばず、遂に三日前からは私の精気を吸い始めました。妖は夜明け前には消えます」
「今までは私たち二人の力で妖を退けられたのですが、今回は相手が強くて……」
赤いブラウスの椿さんが悔しそうだ。今度は葵さんが話す。
「家を出て逃げましょうと言っても、透子様は『逃げても追ってくる。歳を考えれば私の寿命みたいなものだから』と諦めていらっしゃるんです。でも私たちは眺めているだけなんて受け入れられず、強い付喪神を従えている付喪神使い様を探し回っておりました」
探すと言っても東京は広く人も多い。そこで、椿さんが得意な術を使ったそうだ。
「私は手鏡に映した小さな生き物を自在に操れます。術を使い、雀たちに付喪神使い様を探させました。すると、一羽の雀が、『強い付喪神を連れている人を見つけた』と知らせてくれました。統神様の了承も得ずに勝手なことをして申し訳ありませんでした」
「ああ、それで。昨夜うちに来た雀は、椿さんの雀だったんですね」
「そうです。申し訳ありませんでした。透子様にとても叱られました」
透子さんは「そんな手段を使ったことを、後から知りました。勝手に統神さんのお住まいと職場を探ったのはあまりに無礼なことです。本当に申し訳ございません。主としてお詫び申し上げます」とまた深く頭を下げた。
「これでお話は終わりでございます。お時間をありがとうございました。椿、葵、帰りますよ」
「帰りません。このままでは透子様の命が奪われてしまいます」
椿さんと葵さんが泣いている。
4月6日(月)のできごと




