13 鰻のあとで鉢合わせ
不忍池からほど近い鰻屋さんは風情ある建物で、僕は以前、上司が退職する際に一度だけ入ったことがある。
僕ら三人は広い座敷に案内されて、うな重御膳を頼んだ。
運ばれてきた鰻はとろけるように柔らかい。肉厚でふわふわ、甘辛い味付けでごはんが進む。
雨月は相変わらずお作法の先生みたいに美しく食べ、千歳は最初こそ大きな口で勢いよく食べていたけれど、途中からひと口ずつ大切そうに味わっている。
「僕が中学に合格した日、家族三人で鰻を食べた。ここじゃなくて、個人経営のお店。すっごく美味しいと思ったけど、ハンバーグのほうが好きだと思ったのを覚えているよ。ふふ」
「中学には全員が行けるのではないのか?」
「父さんの意向で私立中学を受験したんだ。それまでずっと勉強漬けだったなあ。じいちゃんの家を出てからは、週に四日は塾に通ってた。小学校の六年間はほとんど友達と遊べなかった。中高一貫の学校だったけど、僕は内部進学しないで別の高校を受験した」
周りに人がいるし付喪神たちは僕の心が読めるから、その先は言葉にしなかった。
中三の夏に母さんが亡くなり、僕は勉強への意欲を失った。
分不相応な進学校にぎりぎりで合格してから母さんが亡くなるまでの二年四ヶ月で、僕の心はすっかり折れていた。
どんなに必死に勉強しても、同級生に追いつけなかった。成績最優先の環境の三年間で、僕は劣等感の塊になった。
私立の進学校に入ってわかったけど、本当に優秀な人たちは僕みたいに死ぬほど勉強しなくても成績優秀だった。彼らは部活に入っていて、県大会に進んだりもしていた。積んでるエンジンが違うってことを、嫌というほど思い知らされたな。
受験しなおして公立の高校に入って以降は、寿命を削るほど勉強するのはやめた。級友とハンバーガーショップに行ったり、ゲーセンに行く楽しみも覚えた。
父さんは僕に有名大学有名企業と進んでほしかったのだけど、僕は高校から父さんの期待を背負うのを諦めた。大学は実力に見合ったところに入ったし、安定しているという理由で公務員を選んだ。
僕さ、この年齢で君たちに出会ってよかったよ。もっと前の僕だったら、君たちを使って楽をしようと考えた気がする。
「今の春人さんは、前とは違うってことですか?」
「そうだね。進学校から逃げ出して、折れまくっていた心が元気になったんだ。もうだめだと思ってもその先がまだある、人生を続けられると思えるようになった。十代で人生を投げたらもったいないと思えるくらいには元気を取り戻した。穏やかな暮らしのおかげだ」
雨月が僕を見た。僕の心の中を全部見ているんだから、取り繕う必要もない。
僕は母が亡くなった後で父に疎まれた。あまりの成績の悪さに見放されたと言うべきか。自分よりはるかに劣っている息子に、父は心底がっかりしていた。
そうなると何事にも合理的な父は、僕に何も期待しなくなり、会話もなくなった。
中学生の僕は「今、父さんに放り出されたら人生が詰む」と思った。恐怖だった。
だから料理、洗濯、掃除を一手に引き受けた。表面的には父と息子が力を合わせているように見えただろうけど、父が稼いで生活費と学費を出してもらう代わりに僕が家事をするという力関係で成立していた。
高校に入り直してからも、『自分は価値のない人間だ』という思いは心の底にあった。
それがつらくて苦しくて、父さんの再婚をきっかけに家を出た。新婚家庭に気を遣ったというのは建前だ。期待に沿えていない以上、経済的にも頼るべきではないと思った。だから大学時代はバイトと単位の修得に追われた。今よりずっと時間の余裕がなかったけど、それでも父さんに見放されながら暮らすよりはましだった。
「お前には価値がある。付喪神使いは少ないんだ」
「そんなことは最近まで知らなかったし」
「春人さんは優しい、いい人です」
「ありがとう、千歳。なんか、ごめんね。せっかく千歳のめでたい日なのに、湿っぽい空気にしちゃった」
すると、雨月が食後のお茶を飲みながら、じいちゃんの話を始めた。
「統神の力は、直系の子孫でも必ず受け継ぐわけではない。それをわかっていても、朔は苦しんでいた。だが、懸命に生きていたぞ。朔が泣いたのは、妻の楓が流行り風邪をこじらせて亡くなったときだけだ。お前たちが家を出た日も、がっかりはしていたが泣かなかった」
「そうなんだ……。じいちゃんにはどんな楽しみがあったの?」
「旨い飯を作って食うことだ。季節の野菜や山菜に手間をかけて、美味しく食べることを楽しんでいた。朔にとって料理は娯楽だった。そこが春人とよく似ている」
そうか、僕はじいちゃんから料理を楽しむ心を受け継いていたのか。
じいちゃんに会いたい。会って話をしたいよ。
そう思っている僕の頭を、隣の雨月がわしゃわしゃと撫でた。
鰻を食べ終え、店を出た。のんびり歩いて見つけた古い洋菓子店で、ホイップクリームと生のイチゴにチョコがかけられているタルトを買って、三人で歩きながら食べた。
それからアメ横で買い物を済ませようと思ったんだけど。
混雑している通りを雨月が前、僕と千歳がその後ろを並んで歩いていたら、突然、雨月が硬い表情で僕を振り返った。
「向こうから哲也が来る」
哲也とは父さんのことだ。噂をすれば影のまんまじゃないか。高校卒業以降、数えるほどしか会っていないのに、雨月と千歳に守られながら歩いているときに出会う運の悪さよ。
雨月、千歳、この場は君たちと僕は趣味のフットサル仲間ってことにしてほしい。
「承知」
「フットサルが何かわからねえですけどわかりました」
「お前は口を閉じていればよい」
「へい、兄貴」
僕たち三人が見つめていたせいか、父さんが僕たちに視線を向けた。隣に寄り添っているのは再婚相手の麻美さんだ。
父さんが麻美さんに何か言い、二人が僕を見た。雑踏の中で僕たちは足を止め、向かい合った。
「お久しぶりです。ご無沙汰しております」
「久しぶりだな。元気そうだ」
「はい。おかげさまで」
「こんなところで何をしているんだ」
「フットサルの仲間と遊びに来ました」
「そうか」
数年ぶりに会って、話題はこれで尽きた。気を利かせた麻美さんが「たまには家に帰ってらっしゃいよ」と言ってくれたけど、父さんは「そうだよ」とも「来なさい」とも言わない。安心してほしい。僕は行かないから。そしてくっきりと思い出した。父さんから相手にされなかった日々を。
人間というのは都合よく記憶を改ざんするんだな。
母さんが亡くなったあとのことを他人に聞かれると、僕はいつも「父と二人で力を合わせて暮らしていました」と答えていた。そのセリフを繰り返しているうちに自分でもそんな気になっていた。
だけど現実は違う。父さんはあの頃、僕に見切りをつけていた。そして今も。親の務めとして高校卒業まで金銭的な面倒を見てくれただけでもありがたいと思えるくらい、親子関係は冷え切っていた。
「友人と一緒なんで、これで失礼します。ああ、そうだ。じいちゃんが亡くなりました」
「お前は何でそれを知っているんだ」
「じいちゃんが依頼していた行政書士さんから連絡がありました」
我ながら余計なことを言ったものだと思う。聡い父さんなら、じいちゃんが亡くなって僕があの家を相続したことに思い至らないわけがない。床の間に置かれて大切にされていた日本刀のことも思い出しただろう。
「春人、まさかと思うが」
そこまで言って、父さんは麻美さんの方に視線を動かした。
なるほど、父さんは麻美さんに統神家の話を全くしていないのか。統神家の婿に入っても付喪神の話を嫌っていた父さんは、再婚をきっかけに元の姓に戻したくらいだ。麻美さんに統神の能力の話をするわけないよね。
ここで分かれよう。今しかない。
「では失礼します」
僕はそう言って雨月と千歳に「お待たせ」と声をかけて歩き出した。父さんが僕たちの後ろ姿を見ているような気がする。
「ああ、見ているな」
「やっぱり」
「哲也が俺のことを疑っているように思う。俺の見目を、集落の誰かから聞いたことがあるのかもしれない」
「疑わせておけばいいさ。徹底したリアリストだから付喪神の話は今も信じていないさ。僕は僕の人生を生きている。雨月と千歳のことはもう、父さんには関係がないことだ」
「そうだな」
雨月がどんな表情でそう言ったのか、見る勇気がなかった。
僕は心の中で父親を切り捨てて生きている。心を潰されずに生きるために、親と距離を置かなくちゃならない場合もあるんだよ。
僕たちは買い物をしてからマンションへ帰った。途中、三人ともしゃべらなかった。
せっかくのお出かけだったのに、暗い雰囲気にしてしまった。千歳のために、さっさと気持ちを切り替えよう。
その夜は月見うどんとチーズ入り竹輪の磯辺揚げにした。たっぷりの大根おろしも添えた。
夜中に頭を撫でられて目が覚めたけど、寝たふりをした。狸寝入りをしても、雨月と千歳にはバレていたはずだ。だけど目を開けて雨月の顔を見てしまったら、みっともなく泣いてしまいそうだった。そのくらい、父との二人暮らしは精神的にきつかった。
子供には逃げ場がないからね。
4月5日(日)のできごと。




