12 上野へ
新しい僕が増えて、僕は張り切っていたらしい。目が覚めて枕元の時計を見たら、まだ五時だ。カーテンの外が少し明るくなっているから、二度寝をせずに起き上がった。
ベランダに出ると、「春人さん、おはようございます」と言って千歳が一緒に出てきた。
二人で明るくなっていく東の空に見惚れた。美しい夜明けだった。
「オラ、日の出を見るのはいつ以来かわかんねぇです。ずっと新聞紙に包まれていて、何も見られなかったもんで」
「今日からは好きなだけ空を見られるよ。星空も見られるね」
千歳は顔を出した朝陽を見詰めながら「綺麗だあ」と涙ぐんでいる。
「オラが置いてあった家は、四代目の娘夫婦の家でした。オラ、付喪神にはなったけど、四代目は付喪神使いではなかったし、五代目はチェーンソーを使っていましたから、オラは働くこともなくずっと新聞紙に包まれたままでした」
「これからは楽しく暮らそうね」
「オラ、あの家と一緒に埋められるとこでした。春人さんには、どれだけお礼を言っても足りねえです」
朝日を眺め続けている千歳を置いて、僕は台所で朝ごはんを作り始めた。
今朝のメニューは春キャベツと塩昆布の揉み漬け、新玉ねぎと車麩の卵とじ、ネギ入り納豆、小松菜と油揚げのお味噌汁だ。どれも簡単だから、ごはんが炊ける間に作り終えた。
雨月は洗濯機を回し、その間に床を水拭きしていて、掃除の仕方を千歳に教えていた。
朝ごはんをテーブルに並べたものの、椅子が二脚しかない。僕がデスク用の椅子を使うことにした。
千歳は自分用の朝食に感動して食べる前に目を潤ませ、食べながら「どれも旨いです」と言ってまた泣いた。泣き虫なんだね。
「いちいち泣くな。落ち着いて食べろ」
「だって兄貴、オラは自分の体を持ったのも、この目を使って景色を見るのも、旨いものを食べるのも、全部が初めてなんです。オラ、嬉しくて嬉しくて」
「好きなだけ泣いたらいいよ。千歳、今日は僕の仕事が休みなんだ。僕がずっと一緒にいるから、安心してゆっくり過ごせばいいからね」
「そのことなんだが春人、こいつの仕事を見つけねばならん。こいつは間違いなく大食いだ」
千歳を働かせるのは、まだ早すぎるんじゃないかなあ。勤め先で混乱しないよう、しばらくは人としての動きや対応を学んでからでもいいと思うんだけど。
「甘やかし過ぎだ。こいつは春人より長い時間を人と共に暮らしている。皿洗いくらいはできるだろう。あのカフェは人手が足りずに困っているから、俺が交渉しよう」
雨月と同じ職場なら、千歳が何かやらかしても安心か。
「千歳、お前は俺と同じ店で皿洗いをしろ」
「兄貴と同じ職場なら心強いです」
「ではこれから店長に話をつけていいか?」
「待ってよ雨月、まだ六時だよ。店長が気の毒だってば。せめて九時まで待ってあげて」
「いや、夢枕に立つから早い方がいい。千歳、俺が動かないでいる間、お前は春人を守れ。絶対に離れるな。もし妖が現れたら、斧で叩き切れ」
「合点です、兄貴」
「部屋と家具を傷つけるなよ」
雨月は部屋の隅で目を閉じて動かなくなった。
少ししたら妖が入ってきた。今度は台所の排水口からだ。僕は椅子に座って読書していたんだけど、千歳は僕の背後に立ち、僕に近寄ってくる小者の妖を叩き斬った。その斬り方が豪快で、ブン! ブン! と空気を切り裂く音がすさまじい。
「千歳、もう少し僕から離れてくれないかな。僕の首が飛ばされそうで怖いよ」
「まさか! 大切な春人さんの首を飛ばしたりしません!」
千歳は無邪気な笑顔で答えるけど、どうも不安だ。その無邪気な笑顔のまま、うっかり僕の首を斬り飛ばしそうな気がする。だから僕の背後ではなく、流しの前で妖を待ち構えてもらうことにした。
千歳はジッと流しを見詰めていて、手のひらサイズの小さくて黒いモヤモヤが侵入すると即座に斧を振る。かなり重い斧なのに、ハエ叩きを振り回しているかのように軽く素早い動きだ。
そのうちに雨月が目を開けた。
「春人、千歳の働き口を得たぞ。千歳は明日から洗い場係だ」
「さすがは雨月兄さん。仕事が早いや。茶碗洗い、頑張ります!」
「店長さんは眠っていたんでしょう? ちゃんと了承してもらえたの?」
「千歳を雇わないなら二人一緒に雇ってくれる店に移ると言ったら、眠りながら何度もうなずいていた。ふっ」
雨月が黒い笑みを浮かべている。雨月は、自分が女性客を集めている自覚があったんだね。
「雨月、これから千歳を連れて近場の散歩に行かない?」
「僕の我らに気を遣う必要はないぞ」
「僕は千歳が楽しそうにしている姿を見たいんだよ」
「甘い主だな」
まあね。寂しい日々がどれほど心を削るか、知ってるからね。
日曜日だし、のんびり散歩と見物をして息抜きしたい。じいちゃんの遺言書を読んでからずっと、怒涛のようにいろんなことがあったもの。
「君たちを連れていく場所はどこがいいかねえ。合羽橋で調理道具を眺めるのはどう? 未来の付喪神たちを眺めない?」
「俺は生まれたばかりの道具に、興味はない」
「あっそう。千歳は行きたい場所がある?」
「オラ、四代目が何度も通っていた『動物園』ってとこに行ってみたいです」
「いいね、動物園。行こうよ」
そう言って三人で上野動物園に来たんだけど、動物って付喪神に気づくんだなぁ。
僕たちが檻やガラスの前に立つと、全ての動物たちが目を逸らして奥へ逃げてしまう。尻尾を股に挟んで隠れてしまう動物も多かった。
動物たちを怖がらせるのは気の毒だから、見物を早めに切り上げた。僕らは外のテーブルでひと休みしている。
雨月はペットボトルの冷えた水、千歳はソフトクリーム、僕はアイスコーヒーだ。千歳は「うんまい。冷たくて甘くて柔らかくて、オラ、これが大好きです!」とはしゃいでいる。
雨月がそんな千歳を眺めながら無表情につぶやいた。
「獣は俺たちの正体に気づいていたな。そういえば幸之助が『猟に出ても、お前がいると猪も熊もみんな逃げてしまう』とぼやいていた」
「オラ、もっとじっくり見物したかったです。獣たちは兄貴を怖がっていましたね」
「怖がられていたのは俺よりお前だ。ニコニコしながら首をはね飛ばしそうだから、獣たちが怯えたのだ」
千歳は「オラ、そんなことしねえです」と不満気だ。
「まあまあ、喧嘩しないで。仕方ないよ。動物たちは本能で感じ取るんだろうし。そうだ雨月、この近くには東京国立博物館があってね、すごい名刀が収蔵されているんだ。僕、以前は日本刀に関心がなかったけど、今なら興味がある」
スマホで検索して、博物館で展示中の名刀一覧を雨月に見せた。するとスマホの画面を覗いた雨月が表情を変えた。
「どうしたの?」
「この百鬼伏安宗という太刀を知っている。知り合った時にはもう付喪神になって主に仕えていた」
「どれどれ。伯耆国の刀工である安宗が鍛えた太刀。峠で百鬼夜行が繰り返されて皆が困っていたため、その地を治めていた君主が峠に祠を建ててこの刀を奉納したところ、ぴたりと怪異が鎮まった。このため『百鬼伏』の名がつけられた、だってさ。雨月の知り合いならこの刀を見に行こうよ」
「いや。やめておこう。博物館に収められているのなら、今は主を得ていないということだ。春人の僕になりたいと騒がれたら面倒だ」
「あー、なるほど。それは困るね」
するとそれまで辺りの景色を眺めていた千歳が、無邪気な声でこんな提案をした。
「春人さん、オラ、来る途中で見た鰻を食べてみたいです! 四代目が古希の祝いで、すんごく旨そうに食べていました」
「いいね。じゃあ、昼は鰻を食べよう。雨月もそれでいいだろう?」
「ああ、鰻は好きだ」
千歳はずっと寂しい思いをしていたんだもの、今日は千歳を目一杯楽しませたい。
4月5日(日曜)




