恐怖②
私は教材を乱雑に机の上に置いて、布団に潜って「第二の人生」について考えた。
喜翔がこの家にいるとどうしても理想的な「第二の人生」を送れない。
私の心を掻き乱して邪魔をする。
私は部屋の鍵がかちゃかちゃと音を立てていることに気付いた。
金属と金属が擦り合わさって生まれるその音で、喜翔がピッキングをしていることに気付く。
咄嗟に逃げ場を探した。ベランダしかない。
私が布団から飛び出して裸足のままベランダに出て振り返ったのと、
喜翔が部屋のドアを開けるのはほぼ同時だった。
喜翔が舌なめずりをしながらベランダに近づいてくる。
私はあの日のことを思い出した。病院から飛び降りたあの日のことを。
喜翔はベランダまでやって来て、私はベランダの隅に追いやられた。
びゅうっと風が吹き、あの夢を思い出す。あの三年間見続けた夢を。
庭にある桜の木が揺れていた。
手も足も、体全体が震えていた。もう三年前には戻りたくない。
喜翔の思い通りにはさせない。そう思うのに、体が動かなくてこの状況を打開できない。
「また飛び降りるのか」
喜翔は不敵に笑う。私はベランダの手すりに手をかけてそのまま腰掛けた。
「もう、なんだっていいや」
私は呟いた。限界だった。生まれたのは、更に深くて濃い復讐心。
心が、どんどんと黒いものに支配されていく。心臓が激しく脈打っていた。
「東雲」
喜翔が手を伸ばす。私は両手を広げる。
夢の中で翼を広げたみたいに。
二階のベランダから落ちたって死にはしないとは思っていたけど。
「危ない!」
誰かに抱きとめられるとは思わなかった。
「誰だテメェ!しのに触るな!」
喜翔が私たちを見下ろして二階のベランダから叫ぶ。私を抱きとめた人も叫んだ。
「あなたこそ東雲さんに触れないでください!」
抱きとめたのは偶然忘れ物を取りに戻って来た如月先生だった。
如月先生は靴を履いていない私をお姫様抱っこして、通りがかったタクシーを止めて私と一緒に乗った。
そして如月先生は私の知らない地名を運転手さんに伝え、タクシーは走り出す。
喜翔がまだ何か叫んでいるような声が聞こえた。
私は如月先生がいてくれる安心感でちょっとだけ泣いた。
体は震えていた。如月先生はそんな私の肩を抱いて、「もう大丈夫」と繰り返し言った。
着いたのは如月先生の家だった。
如月先生の家は、家というより屋敷という方が適切な、お城のような建物だ。
如月先生が重厚な扉をゆっくりと開けて中に入ると、靴を脱ぎ、抱き上げていた私を下ろした。
裸足にふかふかの絨毯が触れる。
「京、お帰りなさい」
奥から如月先生のお母さんらしき人が手を拭きながら出て来て、「あら」と私たちを交互に見た。
「こんにちは。初めまして、私堅田東雲と申します」
私はさりげなく涙をぬぐい、努めて落ち着いてご挨拶をした。
「ああ、堅田さんのところのお嬢さんね。いらっしゃい。京の母です。よろしくね」
如月先生のお母さんは私のお母さんに負けないほど優しそうな人だ。
「お母さん、堅田さんのところに娘さんはここにいますと連絡したいんだけど」
「はいはい、今お電話しますね」
如月先生のお母さんは廊下の奥に進む前にちょっと立ち止まって「二人とも、リビングにいてね」と言った。
お邪魔します、と言った私に、如月先生は、兄貴がデキ婚したから東雲さんを僕の部屋に入れたくないんです、と耳打ちした。
如月先生のお母さんは私のお母さんに私がここにいると連絡した後、「お母さんが迎えに来られるそうよ」と美味しくて温かい紅茶を淹れてくれた。
数十分後、インターホンが鳴ってお母さんが来た。
「しの!」
お母さんは大袈裟に心配していて、私を見るなりきつく抱きしめて「大丈夫だった?」と言った。
「如月先生が偶然いてくれたから助かったの」
「そう。京くんありがとう」
「いえ、たまには忘れ物もしてみるものですね」
如月先生はそう言ってお母さんに微笑んだ。
お母さんは如月先生のお母さんと少し世間話をして、「そろそろ帰りましょう、しの」と私を促した。
「またいらして」
如月先生のお母さんはそう言ってくれた。
「またお邪魔させてください。紅茶、美味しかったです。お邪魔しました」
私はぺこりとお辞儀をして如月邸を後にした。
もう二度と帰りたくないと思う反面、私の居場所はあの家にしかないとも思った。
「しのの部屋の鍵をもっと複雑なものに変えなきゃダメね」
お母さんは言った。数日後に鍵屋さんがやって来て、私の部屋の鍵はピッキングされにくいものに変わった。




