第9話 パニック
「戻れないだと……? ふざけるなッ! じゃあ、なんで外したんだ! お前は未来を見たんだろうが!」
宙吊りにされたまま、リリアはポロポロと大粒の涙をこぼした。完全に怯えきった、何も知らない無力な子供の顔を作り、悲痛な声を張り上げた。
「わ、わからないの! 何度時間を戻してやり直しても……違うカードが出てくるの!」
その言葉は、大金を失って完全に理性を飛ばしていたガストンの脳内に、ひとつの最悪な仮説を植え付けた。
(違うカードが出てくる……? つまり、店側が後出しでカードをすり替えているってことか……?)
ガストンの瞳孔が大きく開き、その怒りの矛先が、リリアからテーブルの向こう側に立つディーラーへと鋭く向き直った。
「てめえら……イカサマしやがったなッ!!」
全財産を失って発狂したガストンは、邪魔になったリリアを床へと乱暴に投げ捨てると、獣のような咆哮を上げながらカジノ側のディーラーへと食ってかかった。
「俺の金を返しやがれ、この詐欺師どもが!」
ガストンがテーブルに身を乗り出してディーラーの胸ぐらを掴んだ瞬間、背後の暗がりで待機していた屈強な用心棒たちが一斉に飛び出してきた。
「この野郎、店で暴れる気か!」
怒号と悲鳴が入り混じり、緑色のラシャが張られたバカラのテーブルが派手な音を立ててひっくり返された。宙を舞うトランプと、散らばるグラスの破片。鉄火場は瞬く間に、血と暴力の入り混じる凄惨な乱闘劇へと変貌した。
冷たい石畳の床に投げ出されたリリアは、頭上を飛び交う怒声と鈍い打撃音の嵐の中で、静かに体を丸めていた。しかし、その瞳には先ほどまでの怯えた色は微塵もない。
(……おじさん、本当に手品みたいに信じ込んじゃった)
そう、これこそがリリアの仕組んだ計画であった。
彼女は十秒後の未来で右が当たりであると知っていながら、わざと左だとガストンに嘘を教えたのだ。
数日前に広場で見た大道芸人の手品を思い出し、リリアはある確信を抱いていた。人間は手先で簡単に嘘をつく。そして、カジノのような場所であれば、なおさらだ。もし店側がイカサマをしているとガストンに信じ込ませることができれば、大金を失った彼の異常なまでの執着心と暴力性は、必ずカジノ側へと向けられるはずだと計算していたのだ。
このまま勝ち続ければ用心棒に裏路地に引きずり込まれて殺され、負ければ怒り狂ったガストンに殺されるという絶望的な状況下において、リリアが見出した生き残るための唯一の解答。
それは、カジノ側とガストンを衝突させることだった。
大人が勝手に潰し合い、場が混乱に陥る。その凄まじい乱闘の隙に乗じて、自分だけテーブルの下に潜り込んでこの地獄から逃げ出す。それが、十歳の少女が生き延びるために練り上げた、あまりにも明確で冷酷な脱出計画であった。
リリアは、大男たちが殴り合う足元を這い、床に散らばるチップや割れた酒瓶の残骸を払い除けながら、出口へと向かって冷たい石畳を這い進んでいった。
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しかし、リリアが暗がりの出口へ手をかけようとしたその時、予期せぬ事態が起こった。
ドォォォンッ!!
鼓膜を破るような凄まじい破壊音と共に、闇カジノの重厚な鉄の扉が外側から蹴破られたのだ。
「そこまでだ! 全員動くな!!」
土埃と夜風と共に地下室へと雪崩れ込んできたのは、銀色の甲冑を身に纏い、手にした長槍を鋭く構えた治安部隊であった。
「ち、治安部隊だ!」
「逃げろッ!」
一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに陥るギャンブラーたち。しかし、完全武装した部隊の動きは統率が取れており、逃げ惑うならず者たちや用心棒たちを次々と床にねじ伏せていく。
「離せッ! 俺の金だ、俺の金を返せえええッ!」
乱闘で用心棒たちに殴られ、顔を血で腫らしたガストンもまた、治安部隊の屈強な騎士たちに背後から取り押さえられた。暴れる彼の両腕は容赦なく捻り上げられ、冷たい石畳の床へと強く押し付けられる。
「お前がガストンだな。幼い子供をこんな場所に連れ回しているという通報があった」
冷酷な声で告げる隊長の視線の先には、テーブルの陰で身を縮めているリリアの姿があった。
「違法な闇カジノの利用、ならびに児童虐待の現行犯でお前を逮捕する」
「ち、違う! 俺は悪くねえ! そいつが、そのガキが勝手に……ッ!」
見苦しく喚き散らすガストンの口は、部隊の兵士によって乱暴に塞がれた。そのまま彼は、まるで汚物でも扱うかのように無様に引きずられ、闇カジノの外へと連行されていく。
「……もう大丈夫だ、お嬢ちゃん」
呆然と立ち尽くすリリアの前に、一人の兵士が歩み寄り、優しく手を差し伸べた。
その温かい手に引かれ、リリアは澱んだ地下の闇カジノからついに連れ出された。重い石段を上り、外に出た瞬間、冷たくも新鮮な夜風が彼女の頬を優しく撫でた。
見上げれば、王都の夜空には美しい月が静かに輝いている。つい先ほどまで、自分を支配していた絶対的な恐怖の象徴であるガストンは、鉄格子を嵌められた護送馬車の中に放り込まれ、二度と戻れない暗闇へと運ばれていった。
(……終わったんだ)
自分の能力を悪用しようとした大人は自らの強欲によって自滅した。リリアは一切自分の手を汚すことなく、この最悪の環境から抜け出すことに成功したのだ。
しかし、この出来事は十歳の彼女の心に、消えない深い教訓を刻み込んでいた。
無知であること、そして力を不用意に他者へ見せることは、身の破滅を招くのだと。自分の持つ能力は、人の心を簡単に狂わせ、最悪の怪物を生み出してしまう。
「絶対に、誰にも言わない……」
リリアは、自分の能力の事はもう二度と周りに明かさないと、夜空の月に向かって固く誓った。
リリアの瞳には、もう過去の怯えた少女の面影はない。生き延びるための知恵と、真実を隠し通すという静かな決意を宿した強い光が、確かに灯っていた。




