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チクタクリターン ~十秒だけ時間を戻せる身代わり令嬢が、孤高にして高嶺の王太子から甘く溺愛されるまで~  作者: 団田図


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第8話 敗北と発狂

 逃げ場のない鉄火場の中で、リリアの頭の中は恐怖で真っ白になりかけていた。しかし、その極限状態の中で、彼女の奥底に眠っていた生存本能だけが、冷たく、そして鋭く警鐘を鳴らし始めた。


(助けてくれる人は、誰もいない……)


 白馬に乗った王子様など現れない。頼れる大人など、この世界にはどこにもいない。自分の身は、自分で守るしかない。


「さあ、どっちだ。早く言え」


 ディーラーが伏せたカードを場に配り終えた瞬間、ガストンがリリアの細い腕をギリッと力強く掴み、血走った目で急かした。

 リリアは震えるまぶたを強く閉じ、三回、連続でマバタキをした。


 パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。


 強烈な浮遊感と共に、十秒の時間が巻き戻る。めくられたカードの結果を網膜に焼き付けたリリアは、再び現実の時間に戻ってくると、ゆっくりと目を開けた。


「……どうした、早くしろ!」


 ガストンの指が腕に食い込む。骨が軋む痛みに耐えながら、リリアは青ざめた唇を震わせた。極度の恐怖に声が上ずりそうになるのを必死に堪え、彼女の口から紡がれたのは、たった一言だった。


「……左、です」


 それを聞いた瞬間、ガストンの顔に歓喜の笑みが浮かんだ。


「聞いたか! 左だ! 幸運の女神さまからのご神託だ! このチップを全部、左に賭ける!」


 ガストンは狂ったように笑いながら、これまでに稼ぎ出した莫大なチップの山を、両手で乱暴に左側の枠へと押し出した。

 ざわっ、とテーブルを囲む客たちから大きなどよめきが上がる。それまでに積み上げた全財産を一度の勝負に賭けるという、常軌を逸した行動に誰もが息を呑んだ。


 カジノ中の視線が、台の上に注がれる。

 ディーラーは僅かに眉を動かしただけで、無表情のままカードに手を伸ばした。


 ゆっくりと、しかし確実に、カードがめくられた。


 +++


 結果は――『右』。


 ガストンの賭けた大金は、すべてカジノ側に没収されるハズレであった。


「……あ?」


 ガストンの喉から、間抜けな音が漏れた。彼の顔から表情という表情がすっぽりと抜け落ちる。


 ディーラーが冷淡な手つきで、テーブルの上のチップの山をすべて回収していく。


 あれほど高く積み上げられていた黄金の山は瞬く間に消え去り、ガストンの手元には、もう何一つ残されていなかった。


 完全な、敗北。


 静寂は一瞬だった。次の瞬間、ガストンの顔がみるみるうちに赤黒く染まり、額に太い青筋が何本も浮かび上がった。


「ふざけるなッ!!」


 ガストンは獣のような咆哮ほうこうを上げ、リリアの胸ぐらを乱暴に掴み上げて空中に吊るし上げた。


「間違えやがって、このクソガキが! 何をしてる、早く戻せ! 時間を戻して右に賭け直させろ!!」


 唾を飛ばし、目を血走らせて狂乱するガストン。その顔は、リリアが今まで見てきたどんな姿よりも恐ろしく、醜悪だった。大金を失ったショックで完全に理性を失い、ただひたすらにリリアの能力という魔法にすがりつこうとしている。


 しかし、宙に吊るされたリリアの心は、激怒するガストンを前にしても、なぜか奇妙なほど静かに澄み切っていた。彼女の耳には、カジノのどよめきも、ガストンの怒号も、水の中にいるかのように遠くくぐもって響いていた。


 聞こえるのは、自身の心臓が刻む、一定の鼓動の音だけだった。


 ドクン、ドクン、という音が、あのカビ臭い部屋にあった古い振り子時計のチクタクという音と重なる。


 (チク) 七秒


 リリアは無表情のまま、目の前で喚き散らす男の顔を見つめながら、心の中で静かに振り子の動きを思い描いていた。


「聞いてんのか!? まだ一回目なんだろ! さっさと戻りやがれ!!」


 ガストンがリリアの体を激しく揺さぶる。細い首が大きく前後に揺れ、息が詰まる。


 (タク) 八秒


 十秒が経過すれば、時間はもうそれ以前には戻らない。それは、リリアが持つ『チクタクリターン』の能力の絶対的な限界点である。


「おい! 早くしろッ!! 時間が!」


 (チク) 九秒


 リリアは抵抗することなく、ただじっとその時が来るのを待っていた。

 そして。


 (タク) 十秒


 完全に、時間が過ぎ去った。


 もはや何度マバタキをしようと、ガストンが大金を賭ける前の世界には二度と戻ることはできない。彼の敗北が、そして彼が全財産を失ったという結果が、この世界に確固たる事実として確定された瞬間だった。


「……もう、戻れません」


 リリアの小さな唇から、ひどく冷たく、乾いた声が漏れた。


「なんだと……?」


「戻れる限界を過ぎました。もう、あの時には戻れないんです」


 その言葉の意味を理解した瞬間、ガストンの両目が見開かれ、絶望と怒りが限界を突破した。

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