第5話 ガストンの豹変
能力を利用できると考えたガストンは、リリアに対する態度をあからさまに豹変させた。
これまでの理不尽な暴力や怒声をピタリと潜め、まるで慈愛に満ちた優しい保護者であるかのように振る舞い始めたのだ。彼は酒の空き瓶が散乱するテーブルを自ら片付け、どこからか拾ってきた煤けた黒板と白墨、そしてトランプカードの束を並べた。
「いいか、リリア。お前のその力は特別だ。だがな、カードの柄も読めねえようじゃ、せっかくの力も宝の持ち腐れだ。俺が特別に文字の読み書きを教えてやるから、しっかりと覚えるんだぞ」
その日から、ガストンはリリアに全てのカードの名称と数字の読み書きを熱心に教え込んだ。
スペード、ハート、ダイヤ、クラブという四つのマーク。そして、一から十までの数字の形と、顔が描かれたジャックやクイーンといった絵札の意味。ガストンは苛立つことなく、何度も同じことを繰り返しリリアの脳裏に叩き込んでいった。
元々地頭が良かったリリアは、ガストンから教えられたことをまるで乾いた砂が水を吸い込むように、スルスルと覚えていった。
これまで学校にも行かせてもらえず、ただ朝から晩まで過酷な家事でこき使われてきた彼女にとって、白墨で黒板に描かれた図形が意味を持ち、言葉として口に出せるようになる過程は、魔法のような驚きであった。
ずっと勉強に飢えていたリリアにとって、これは彼女の人生で初めて得られた学びの機会だったのだ。新しい知識が自分の中に一つずつ蓄積していく感覚は、これまで薄暗い部屋に閉じ込められていた彼女の心に、小さな、しかし確かな灯りをともすようだった。
「すごい……これが『ハートの女王』ですね」
「そうだ、よくできたな。お前は本当に賢い子だなぁ」
初めて色々と勉強を教えてくれるガストンに対し、リリアは無邪気に感謝の念を抱いていた。
これまでの非道な扱いの記憶がすべて消え去ったわけではない。しかし、自分という存在に価値を見出し、言葉を尽くして何かを教えてくれるという状況そのものが、ずっと孤独だった孤児の彼女にはひどく温かいものに感じられてしまったのだ。
幼く無知であるリリアは、その優しい言葉の裏に隠されたガストンの醜い欲望に気づく術を持っていなかった。彼が自分を金ヅルとしてしか見ていないことなど思いもよらず、ただ期待に応えたい、もっと知りたいという一心で、カードの図柄を貪るように記憶していった。
カードの読み書きを学ぶと同時に、ガストンはリリアに能力を使う練習も繰り返し行わせた。
カードの束を裏向きにしてめくり、その絵柄を確認してから時間を戻し、めくられる前の未来を言い当てるという作業の反復である。
何度もその特訓を繰り返す中で、リリアは自分の能力の法則について、一つの明確な事実に気がついた。
部屋にあった振り子式の古い柱時計の音で、リリアは時間が戻る秒数は10秒だと悟ったのだ。
チクタク、チクタク……と、無機質に時を刻み続ける時計の音。世の中の仕組みを知らないリリアは、まだ『秒』という単位の知識を持っていなかった。そのため、彼女は振り子の動きを注意深く観察することで、戻る時間の長さを測ることにした。
振り子が右へ行き、左へ戻る。これで一往復。マバタキを連続で三回して景色が逆行し、再び時間が動き出す起点は、常にこの振り子の動きの『チクタクの5往復ちょうど』だと知ったのである。
五往復分の過去へ戻り、そこから再び全く同じ五往復の時間をやり直す。
自分の意思で時間を巻き戻し、未来を知りながら同じ時間を歩むという感覚は、無力だったリリアにとって初めて得た自分の自慢できる力だった。
リリアは、この能力を『チクタクリターン』と命名した。
振り子の音と共に時を遡る、自分だけの力。誰にも奪われることのない、自分だけの特別な名前だった。
数日間の特訓を経て、リリアがカードの柄と数字を完全に覚えたことを見計らい、ガストンはいよいよ行動を起こした。
「よし、完璧だ。リリア、お前は天才だよ」
ガストンは満足げに手を叩き、テーブルの上のカードを素早く乱暴に懐にしまった。その顔には、隠しきれない歓喜と、これから手にするであろう大金への強い執着が色濃く浮かび上がっていた。
「お前がこんなに頑張って勉強したんだ。ご褒美をやらねえとな」
ガストンは「楽しい所へ連れて行ってやる」と甘い言葉をかけ、リリアの細い腕を引いた。
「楽しい所……?」
リリアは目を丸くして彼を見上げた。これまで、家事のお使い以外で外に出ることなど決して許されていなかったのだ。
「ああ、そうだ。お前のその素晴らしい力を、ちょっとだけ試してみるゲームさ。絶対に楽しいぞ」
ガストンに引かれるまま、リリアは外へと連れ出された。
重い扉を開けると、そこは光り輝く王都の華やかな大通りではなく、むせ返るような湿気と腐りかけた生ゴミの臭いが常時立ち込める裏路地であった。
ズン、と重い足取りで歩き出したガストンの背中を見つめながら、リリアは得体の知れない不安を覚えた。
初めての学びを与えてくれた彼への無邪気な感謝と、直感が告げる微かな恐怖。
それが、自身の命すら脅かされる恐ろしい悪夢の始まりだとは知る由もなく、十歳のリリアはガストンの後ろを怯えながらついていくのだった。




