第42話 複雑な多重暗号
「私が何のためにこの薄氷の上を歩き続けていると思っている。君が隣で微笑んでくれる未来があるからこそ、私は戦えるんだ。……お願いだ、リリア。私をこれ以上、孤独な暗闇に置き去りにしないでくれ」
額をリリアの肩口に押し当て、弱々しくすがりつくように吐露されたその言葉に、リリアの胸は締め付けられるように痛んだ。
彼は怒っていたのではない。愛する彼女を永遠に失うかもしれないという、想像を絶する恐怖に震えていたのだ。隔離された部屋の中で何も知らずにいた彼にとって、自分のために彼女が死の淵を歩いていたという事実は、どれほど恐ろしいものだっただろう。
(私は、殿下をお守りしたくて……でも、逆に殿下をこんなに怯えさせてしまったのね)
リリアは己の無謀さを反省すると同時に、彼からの深く不器用な愛情表現に、熱い涙が込み上げてくるのを感じた。
「……申し訳ございません、ユリウス様」
リリアはゆっくりと腕を上げ、震えるユリウスの背中を優しく抱きしめ返した。
「私を大切に想ってくださり、心から感謝いたします。……でも、私は無事です。殿下のために、生きてここに戻ってまいりました」
温かな体温を伝えるように、彼の背中を一定のリズムで撫でる。
「もう二度と、あのような無茶はいたしません。だから、どうかお顔を上げてください。私たちの反撃は、ここから始まるのですから」
リリアの穏やかで力強い声に導かれ、ユリウスはゆっくりと顔を上げた。
彼の瞳から絶望と恐怖の色が薄れ、代わりに、彼女を何があっても守り抜き、この邪悪な陰謀を打ち砕くという冷徹な決意の光が再び宿り始めた。
「……ああ、そうだな。君が命を懸けて掴んできてくれたその証拠、絶対に無駄にはしない」
ユリウスはリリアをきつく、痛いほどに強く抱きしめ直した。
「君の勇敢さと、私への深い愛に……心から感謝する。ありがとう、私の最愛の妃よ」
互いの鼓動を感じ合うほどに密着したまま、二人はしばらくの間、静寂の中で絆を確かめ合った。
これから待ち受ける壮絶な戦いを前に、隔離された暗闇から抜け出した王太子と、時を駆ける令嬢の心は、決して砕けることのない強固な一つの刃へと鍛え上げられたのであった。
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数日後。ユリウスは、騎士団長レオンの裏切りを疑ってから密かに新設した、王宮内に潜ませているごく少数の信頼できる影の部下を動かした。
彼らの隠密行動により、リリアが特定した旧書庫の壁掛け燭台の右下、三つ目のレンガの奥に隠されていた誓約書は、誰にも気づかれることなくユリウスの私室へと持ち帰られたのである。
厳重に施錠された部屋で、ユリウスとリリアは固唾を飲んで蝋で封じられたその文書を開いた。
しかし、いざその中身を確認したユリウスの顔に、再び濃い疲労の色が広がった。
「……駄目だ。これでは、何も分からない」
羊皮紙に記されていたのは、グランデリア王国の公用語ではなかった。それどころか、隣国の旧帝国語でもない。極めてマイナーな他国の古い言語と、複数の複雑な暗号規則が何重にも絡み合った、解読を拒絶するような文字列の羅列だったのだ。
事態を重く見たユリウスは、即座に極秘裏に王宮トップの学者たち数名を私室へと招集し、解読を命じた。
国を代表する知能が集結し、分厚い辞書や暗号解読の専門書を広げて羊皮紙を囲む。だが、数時間が経過しても、彼らの口から漏れるのは焦燥に満ちたため息ばかりであった。
「殿下……申し訳ございません。この暗号の構造は、あまりにも特殊すぎます」
筆頭学者が脂汗を拭いながら、力なく首を横に振った。
「複数の古い言語の文法がパズルのように組み合わされており、解読の法則を見つけ出すだけで数週間、いや、数ヶ月はかかるやもしれません」
その報告に、ユリウスはギリッと奥歯を噛み締めた。
暗殺決行の日――すなわち、フェリックスとレオンが動く日は、もう間近に迫っているかもしれない。数ヶ月も悠長に待っている暇などないのだ。証拠の中身を早く確認し、敵の狙いや日時を特定しなければ、対抗策を打つことすらできないという絶望的な状況に陥っていた。
「なんということだ……。せっかく手がかりを掴みながら、こんなところで手詰まりになるなど」
ユリウスが机を強く叩き、学者たちが青ざめてうつむく中、部屋の隅に控えていたリリアが静かに進み出た。
「殿下。私に、その文書を見せていただけないでしょうか」
澄んだ声が響き、学者たちの視線が一斉にリリアへと向けられた。
そして、彼女が平民出身であり、アルバート家のメイド上がりであることを知っている彼らの顔に、あからさまな侮蔑の色が浮かんだ。
「何をおっしゃるかと思えば。聞けばあなた様は平民出身だとか。この歴史的かつ高度な暗号が解けるわけがないでしょう」
「そうでございますぞ。我ら王宮のトップ学者でも手こずっているのですぞ。隅でお茶でも飲んでおられなさい」
学者たちが口々にリリアを嘲笑し、無知な小娘の出過ぎた真似だと非難の声を上げる。
しかし、リリアは彼らの罵声を涼しい顔で聞き流し、ただ真っ直ぐにユリウスを見つめた。
ユリウスは、大広間の夜会で彼女がイザベラを圧倒的な知識で論破した姿を知っている。彼は学者たちを鋭い一瞥で黙らせると、リリアへ向けて小さく頷いた。
「やってみてくれ、リリア」
ユリウスの許可を得て、リリアは羊皮紙の前へと立った。
彼女の視線が、複雑な文字列の上を滑る。




