第40話 誓約書
ユリウスは彼を信じ、自分のために血を流してくれたと心から感謝していたのだ。月明かりの部屋で、彼が信じていた世界が崩れる恐怖に涙を流していた姿が脳裏を過る。その尊い信頼を完全に踏みにじり、あまつさえ「致命的な欠陥」だと嘲笑う男を、リリアは絶対に許すことができなかった。
「だが、お前の実家は歴史ある古参貴族とはいえ、ずいぶんと懐事情が苦しいようだな」
フェリックスの言葉に、レオンの顔から余裕の笑みが消え、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえた。
「……ええ。何百年も国を支えてきた由緒正しき我が一族が、今や新興の豪商どもに経済的に敗北し、莫大な借金を抱えて没落寸前です」
レオンの瞳に、暗く濁った憎悪の炎が宿る。
「特に、あのアルバートとかいう小賢しい成り上がり一家……! フェリックス殿下が王座に就き、私に権力を与えてくださった暁には、新興勢力を徹底的に弾圧いたします。あのアルバート一家からは全財産を根こそぎ奪い取り、二度と這い上がれないよう裏路地に叩き落としてやりますよ」
その言葉は、リリアの心に氷のような冷たい殺意を呼び起こした。
彼らは、愛するユリウスの命を狙うだけではない。孤児であった自分を本当の娘のように愛し、温かい居場所を与えてくれたアルバートやクロエまでもを、破滅させようとしているのだ。アルバートの温和な笑顔と、クロエの愛らしい泣き顔が浮かぶ。
(殿下だけじゃない。お父様も、クロエお嬢様も……私の大切な家族を傷つけることなんて、絶対にさせない!)
リリアの闘志は、一層強大なものとなった。
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「言葉だけでは信用できん。互いに後戻りできぬよう、確固たる盟約を結ぼうではないか」
フェリックスが懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上に広げた。
それは、ユリウスに対する直接的な実力行使――暴漢による襲撃の約束と、事後の報酬を明確に記した誓約書であった。
「無論です。殿下にも、確実に約束を守っていただかねばなりませんからな」
レオンが羽ペンを手に取り、迷いなく自身の署名を記し、一族の紋章が刻まれた契約印を力強く押し付ける。続いてフェリックスもまた、王族の証である印をそこに押した。
ユリウスを陥れるための、言い逃れのできない決定的な証拠が、今、完全に完成したのだ。
「この誓約書は、実行の日まで私が厳重に保管しておきましょう。万が一にも、兄上の手に渡るようなことがあってはなりませんからな」
フェリックスが頷くと、レオンは誓約書を丁寧に折りたたみ、蝋で封をした。
そして、レオンは部屋の奥、古びた燭台が壁に掛けられている場所へと歩み寄った。
彼は周囲の壁と何ら変わらないように見えるレンガの一つに手をかけ、特定の法則に従ってそれを外した。すると、重い石の奥に契約書を隠すための小さなスペースが姿を現したのだ。
レオンはその空間の奥底に誓約書を滑り込ませ、再びレンガを元に戻した。一見しただけでは、そこに重要な契約書が隠されているなど、誰一人として気づかないだろう。
しかし、屋根裏からその一部始終を俯瞰していたリリアの網膜には、その正確な位置が完全に焼き付けられていた。
(壁掛け燭台のすぐ右下……三つ目のレンガの奥……)
間違いない。あれこそが、ユリウスを絶望から救い出し、この邪悪な陰謀を打ち砕くための、決定的な「動かぬ証拠」だ。二人の間に交わした誓約書の場所を、リリアは確かに見届けた。
「では、決行の日に」
「ええ。我らの栄光ある未来のために」
二人の男は邪悪な笑みを交わし、別々の扉から密室を後にした。
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ランプの灯りが消え、完全な静寂と闇が戻った旧書庫で、リリアはそっと息を吐き出した。
極度の緊張から解放され、全身からどっと冷や汗が噴き出してくる。しかし、彼女の深い藍色を帯びた瞳には、怯えの色など微塵もなかった。
(これで、勝てる……!)
証拠の隠し場所は分かった。あとは、この事実をユリウスに伝え、あの誓約書を手に入れるだけだ。
もちろん、帰り道にも厳重な警備網が待ち受けている。再び『チクタクリターン』を駆使し、極限の集中力を研ぎ澄ませなければ、ユリウスの待つ安全圏には辿り着けない。
だが、リリアの足取りに迷いはなかった。
リリアは胸元で時を刻み続ける懐中時計をきつく握りしめ、音を立てずに屋根裏から慎重に後退し始めた。愛する人と大切な家族を守るための最大の武器を手にした時を駆ける令嬢は、決意を新たに、暗闇の王宮を密かに駆け抜けていくのだった。




