第38話 潜入
王宮の夜の静寂に包まれた回廊の暗がりを、一つの影が音もなく進んでいく。
豪商アルバート家で鍛え上げられたメイドとしての洗練された所作は、今や気配を極限まで殺すための技術として発揮されていた。
目指すのは、普段は誰も寄り付かない旧書庫の奥深く。第二王子フェリックスと騎士団長レオンが、密談を行う場所だ。
角を曲がろうとしたリリアは、ピタリと足を止めて壁に背を張り付けた。
旧書庫へと続く一本道の廊下には、松明の灯りに照らされた二人の近衛騎士が立ちはだかっていた。レオンの息のかかった部下たちだろう。彼らの視線は鋭く、わずかな物音にも反応するほどの警戒態勢を敷いている。
(ここから先は、見張りが厳重すぎるわ……)
だが、引き返すという選択肢はリリアにはない。隔離された安全圏にいるユリウスを守るためには、今夜、決定的な証拠を掴まなければならないのだ。
リリアは胸元に忍ばせた、純銀の懐中時計をそっと取り出した。
ユリウスから贈られた、愛と信頼の証。
チクタク、チクタク……。
冷たい金属越しに伝わる、無機質で正確な秒針の音。リリアの能力『チクタクリターン』で戻れるのは、常に「十秒間」のみ。この時計が刻むリズムがあれば、能力発動から何秒経過したかを感覚ではなく、完全に把握することができる。
リリアは深く息を吐き出し、見張りの一人が咳払いをして視線を外したその一瞬の隙を突き、物陰から素早く飛び出した。
「誰だッ!」
だが、もう一人の見張りがリリアのドレスの衣擦れ音に気づき、鋭く振り返った。
(見つかった……!)
リリアは躊躇することなく、強く瞼を閉じ、連続で三回マバタキをした。
パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。
強烈な浮遊感と共に視界が歪み、時間が十秒前へと逆行する。
足に床の感触が戻った瞬間、リリアは壁の陰で身を屈めていた。手の中の懐中時計が、再び時を刻み始める。
(衣擦れの音が大きすぎたわ。もっとドレスの裾を絞って、歩幅を小さくしなければ)
十秒後の未来の失敗を教訓に、リリアは歩き方を微調整する。
見張りが咳払いをした瞬間、再び飛び出す。今度は音を立てずに二人の視界の死角を抜け、古い本棚の陰へと滑り込むことに成功した。
しかし、旧書庫の奥へ進むにつれて、警備の網はさらに狭く、複雑になっていった。
四人の近衛兵が不規則なルートで巡回しており、死角となる場所が極端に少ない。古い木製の床は至る所が傷んでおり、少しでも体重のかけ方を間違えれば「ギシッ」と不吉な軋み音を立ててしまう。
リリアは、暗闇の中で何度も何度も限界ギリギリのループを繰り返した。
床が鳴ってしまった瞬間に、時を戻す。
巡回兵と鉢合わせになりかけた瞬間に、時を戻す。
見つかる直前、時計の秒針が九秒を刻むギリギリまで粘り、彼らの動きの癖や視線の方向を完全に脳裏に焼き付けてから、十秒前へと帰還する。
そして、ある長く狭い通路に差し掛かった時。リリアは最悪の事態に直面した。
前方の扉の前には二人の見張り。そして背後からは、巡回から戻ってきた別の二人が迫ってくる。
隠れる場所は、小さな柱の陰しかない。だが、そこはどう身を縮めても、前後のどちらかからは確実に見つかってしまう位置だった。
「おい、あそこの柱の陰……」
「誰かいるぞ! 曲者だ!」
剣を抜かれ、追い詰められる。
パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。
時を戻し、別のルートを探る。だが、別のルートを選べば、今度は窓からの月明かりに照らされて確実に見つかってしまう。
待機していれば背後から来る巡回兵に気付かれ、進めば前方の見張りに見つかる。
どちらを選んでも、タイミングを変えても、どうやっても見つかってしまう「詰み」の状況。
(駄目……抜けられない。どの道を選んでも、絶対に見つかってしまうわ)
同じ場所で数十回に及ぶループの末、リリアの心に深い焦燥が影を落とした。
能力を使っても、体力が回復するわけではない。極限の集中力と緊張の連続により、彼女の息は上がり、足は鉛のように重くなっていた。
見張りの隙は存在しない。ここで諦めて引き返すか、それとも捕まって計画を台無しにするか。手詰まりの絶望感が、リリアの心を冷たく締め付ける。
(私には、無理なの……? これ以上、進む道なんてない……っ)
心が折れそうになったその時、リリアの胸元にある懐中時計の「チクタク」という音が、鼓膜を優しく叩いた。
同時に、昨夜、月明かりの部屋で涙を流したユリウスの顔が、脳裏に鮮明に蘇る。
『私は、怖い。信じていた世界が足元から崩れていくのが……っ』
孤独の中で彼が流した、あの一筋の涙。
そして、自分を対等のパートナーとして認め、共に戦おうと言ってくれたあの深い藍色の瞳の熱。
(私は、殿下をお守りすると誓った。どんな逆境にも負けないと、あの人に約束したのよ!)
彼を絶望の淵から救い出すことができるのは、自分しかいない。ここで諦めることなど、絶対に許されなかった。
リリアは大きく深呼吸をし、震える足に再び力を込めた。




