第36話 夜会での舞踏
シャンデリアの眩い光が降り注ぐ王宮の大広間では、優雅な管弦楽の調べが響き渡り、きらびやかな衣装を纏った貴族たちが歓談の時を過ごしていた。
リリアは王太子ユリウスの正式な婚約者としてこの夜会に出席していたが、彼女を取り巻く空気は決して温かいものばかりではなかった。リリアを「成り上がりの品性のないメイド」と見下す高慢な公爵令嬢イザベラは、夜会において再びリリアに恥をかかせようと目論んでいたのである。
派手で高価なドレスに身を包んだイザベラが、取り巻きの令嬢たちを引き連れてリリアの元へと歩み寄ってきた。その唇には、明確な悪意を孕んだ冷ややかな笑みが浮かんでいる。
「ごきげんよう、リリア様。本日も王太子殿下の婚約者として、さぞかし素晴らしい教養を披露してくださるのでしょうね」
イザベラはわざと周囲の注目を集めるような大きな声で言い放つと、楽団の方へと視線を向けた。イザベラは、伝統を重んじる古参貴族しか知らないような非常に複雑なステップの伝統舞踊の曲をリリアにリクエストしたのだ。
「さあ、リリア様。この素晴らしい曲に合わせて、ぜひ皆様の前で美しい舞をご披露くださいませ」
それは、逃げ道のない狡猾な罠だった。大勢の前で転ばせて嘲笑しようとするのが、彼女の狙いである。
(またしても? どこまで陰湿ないじめを続けたら気が済むのかしら)
警戒するリリアを周囲の古参貴族たちが、面白がるように彼女を取り囲み、フロアの中央へと促した。
優雅だが極めてテンポの複雑な、古き伝統を感じさせる弦楽器の音色が広間に響き始めた。
フロアの中央に立ったリリアの心臓は、警鐘のように早鐘を打っていた。リリアは古書店での猛勉強により舞踊の知識は完璧に頭に入っていたが、実際に踊るのは初めてであったからだ。
(理論はわかっているわ。足の運びも、腕の角度も、重心の移動も……。でも、私の身体が知識の通りに動いてくれるかは別問題よ)
音楽の拍子に合わせて、リリアは最初の一歩を踏み出した。
頭の中にある完璧なステップの設計図に従って右足を前に出し、身体を回転させようとしたその時だった。知識だけで実戦経験のない肉体が、最高級の絹で仕立てられたドレスの重みと慣性に耐えきれず、バランスを大きく崩した。
案の定、最初のターンで足がもつれてしまったのだ。
(しまっ……!)
大勢の貴族たちの前で無様に転倒しそうになるその絶体絶命の瞬間、リリアは即座にマバタキを三回行い十秒戻した。
パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。
強烈な浮遊感と吐き気がリリアの身体を突き抜け、視界が歪んで世界が逆行する。耳の奥で不協和音が鳴り響き、転倒しかけた身体が見えない糸で引き上げられる。
ふっと足に大理石の感触が戻った時、そこはターンに入る直前の瞬間だった。
リリアは自身の身体の動きの癖を冷静に分析した。
(右足への重心の掛け方が強すぎたわ。ドレスの裾の重みも計算に入れて、踏み込みを浅くしなければ)
再びターンに挑む。しかし、今度は左足の送りが遅れ、ステップが音楽のリズムからわずかにずれてしまった。
リリアは本で得た知識と周囲で踊っている人を見て勉強しながら何度も十秒間戻った。
何度も何度も限界までマバタキを繰り返し、時を遡る。脳内にある完璧な理論と、実際の肉体の動きを少しずつ、針の穴を通すような精密さで擦り合わせていく。
右手の角度、背筋の伸ばし方、足先の向き。失敗するたびに十秒前に戻り、微調整を繰り返す。
極限の集中力による数十回のループを経た。
完全に擦り合わせたリリアは、今度はイザベラより遥かに美しい所作と完璧なステップで踊りきった。
流れるような足運び、指先まで洗練された動きは、まるで音楽そのものと一体化しているかのようだった。その優雅さに周囲の貴族たちは魅了され、息を呑んで彼女の舞に見入った。
フロアの端から見守っていたユリウスも、満足げに微笑んでいる。
曲が終わり、リリアが優雅に一礼すると、割れんばかりの拍手が大広間に響き渡った。
「あぁあぁ……。ぐぬぬぬ。お、王妃様に面目が立ちませぬ」
イザベラは唖然として扇子を取り落とし、またしても優雅に微笑むリリアの前に完全な敗北を喫したのである。
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夜会が無事に終わり、喧騒から離れた王宮の奥深く。
静寂に包まれた回廊の突き当たりにある、重厚な扉の前にユリウスとリリアは立っていた。
ユリウスは国王になる前の禊のため、外部から遮断された密閉された部屋(安全圏)で生活することになっていたのだ。
「殿下……」
扉が開かれるのを前に、リリアは俯き、ぎゅっと両手を握りしめた。
「殿下と離れ離れになるのは、とても寂しいです……」
常に命を狙われる過酷な王宮内で、互いに背中を預け合ってきた彼と隔離されてしまうことへの不安と悲しみが、彼女の瞳に涙を滲ませる。
ユリウスはそんなリリアを優しく腕の中に引き寄せ、彼女の銀色の髪をそっと撫でた。
「すぐに終わるさ。心配はいらない。君も、どうか無事でいてくれ。くれぐれも無茶だけはするな」
ユリウスは愛おしげに囁き、リリアの額に静かに口付けを落とした。
重々しい音を立てて扉が閉まり、ユリウスの姿が完全に遮断される。
残されたリリアは、冷たい扉の前に立ち尽くした。
ユリウスが部屋に入った後、リリアはふと顔を上げた。この禊の期間、彼を守るための安全圏の警備を担当しているのは、騎士団長レオンの部下である近衛騎士たちだった。彼らに不審な動きを見せれば、すぐにレオンに筒抜けになってしまう。
リリアの脳裏に、以前目撃したレオンとフェリックスの奇妙な視線の交錯が蘇る。もし彼らが本当に結託しているのなら、ユリウスの安全は決して保証されていない。
(私が、殿下をお守りしなくては……)
リリアは決意を胸に、行動を開始した。
彼女は王宮のメイドや執事からユリウスの給仕予定表を借り受け、それを確認するふりをしながら、警備の隙を突いてフェリックスとレオンの予定表を覗き見たのだ。
書類の端に記された不自然な空白の時間帯と、王宮の裏庭という場所の指定。
(これだわ。ここで二人は密会するつもりなのね)
リリアは給仕予定表を丁寧に返し、誰もいない廊下を足早に進んだ。愛する人を暗殺者の魔の手から救うため、孤独な覚悟を固めながら。




