第35話 ユリウスの絶望
命を狙われる過酷な環境で生きてきたユリウスにとって、最も信頼していた右腕である騎士団長レオンの裏切りは、想像以上の精神的ダメージだった。
視察先の領主の館、その最も奥まった安全な区画。
分厚いマホガニーの扉に閉ざされた私室の中で、次期国王である王太子ユリウスは、一人深い静寂と闇の中に沈んでいた。
幼い頃から常に暗殺の危機に晒され、出される食事の味もわからず、微笑みかけてくる貴族たちの裏に刃を探して生きてきた彼にとって、屈強で誠実な騎士団長レオンの存在は、唯一背中を預けられる絶対的な盾のはずだった。
しかし、その最も信頼していた右腕が、自分を暗殺しようとするフェリックスと結託し、自作自演で自分を欺いていたという真実。それは、彼の心に重く、冷たい絶望の楔を打ち込んでいた。
窓から差し込む青白い月光が、主を失ったかのように執務机の上に置かれたチェスの駒を照らしている。ユリウスは豪奢なソファに深く身を沈め、両手で顔を覆っていた。彼の脳裏には、レオンと共に過ごした数々の「忠義」の記憶が、醜悪な嘘となって幾度もフラッシュバックし、彼を苛んでいた。
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レオンの裏切りが現実味を帯びた夜、ユリウスが一人で静かに傷ついているところにリリアが再度訪れようとしている。
リリアの手には、銀のトレイに乗せられた温かい紅茶があった。アルバートの屋敷で完璧に身につけたメイドとしての技術を総動員し、精神を落ち着かせる効果のあるハーブを絶妙な分量でブレンドしてある。
音を立てずに廊下を進みながら、リリアの胸は締め付けられるように痛んでいた。過酷な生い立ちを持ち、信じていた大人に裏切られる絶望の深さを知っている彼女だからこそ、彼が今どれほどの孤独と苦痛を味わっているのか、痛いほどに理解できたのだ。
「……リリアか。入ってくれ」
控えめなノックに応じる声は、ひどく掠れていた。
重い扉を開けて中に入ると、月明かりの中に座るユリウスの姿があった。「王太子」として気丈に振る舞う彼は、リリアの姿を認めると、慌てて背筋を伸ばし、いつものように優雅で気品のある微笑みを作った。
「すまないね、こんな夜更けに気を遣わせてしまって。私は大丈夫だ。少し、これからの対策を練っていただけで……」
無理をして笑うその声の端々には隠しきれない震えが混じり、深い藍色の瞳はひどく虚ろだった。
リリアは何も言わず、静かにテーブルの上に温かい紅茶を置いた。立ち上る湯気と甘いハーブの香りが、冷え切った部屋の空気を少しだけ和らげる。
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「殿下……」
リリアが憂いを帯びた瞳で見つめると、ユリウスが被っていた完璧な王太子の仮面に微かなひびが入った。彼は紅茶のカップを見つめたまま、独り言のようにぽつりぽつりと過去の記憶を語り始めた。
「……三年前の冬だ。私の寝所に、二人の凄腕の暗殺者が忍び込んだことがあった。その時、真っ先に駆けつけてくれたのがレオンだった。彼は私の盾となり、肩口を深く斬られながらも賊を討ち取ってくれた」
ユリウスの口元に、ひどく自嘲的な笑みが浮かぶ。
「私は、私のために身を呈して血を流してくれた彼の手を握り、生涯の友として厚遇することを誓った。……だが、今ならわかる。あの賊を差し向けたのも、そして彼が流したあの血も、すべては私からの信頼を得るために彼自身が仕組んだ、芝居だったのだな」
自身の愚かさを呪うように、ユリウスは強く唇を噛み締めた。
「私は、なんという滑稽な道化だったのだろう。最も警戒すべき敵を懐に招き入れ、あろうことか自身の背中を預けていた。次期国王たる者が、これほどまでに人の目利きができないとは……」
彼が自らを責める痛切な言葉を聞き、リリアは静かに歩み寄った。そして、ユリウスの前に跪き、古書店で学んだ知識ではなく、自身の血を吐くような凄惨な過去の記憶から、真実の言葉を紡ぎ出した。
「殿下。それは、あなたが愚かだからではありません。人を信じる、美しい心を持っていたからです」
リリアの脳裏に、かつて自分を虐げ、闇カジノへ連れ込んで能力を搾取しようとした親戚の男、ガストンの醜悪な顔が浮かんだ。彼もまた、家族という仮面を被り、リリアの純粋な信頼を利用しようとしたのだ。
「この世界には、心が完全に『欲』に支配されている人間が存在します。彼らは家族の温もりや、主君への忠義という美しい仮面を平然と被り、他者の純粋な信頼を、自身の欲望を満たすための踏み台としか見ていません」
リリアは、ユリウスの冷え切った両手を、自身の温かい両手でしっかりと包み込んだ。
「欲に狂った悪意を見抜けなかったのは、殿下の罪ではありません。純粋な信頼を裏切り、食い物にした者たちこそが、絶対的な悪なのです」
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その言葉に、ユリウスは目を見張った。泥の底を這いずり回り、大人の底知れない悪意をその身で受けてきたリリアだからこそ持つ、確かな説得力だった。
リリアはゆっくりと立ち上がり、座っているユリウスのすぐ隣へと腰を下ろした。
「今夜だけは、王太子という重い鎧を下ろして、ただの一人の男性でいてください」
慈愛に満ちた声で囁きながら、リリアはユリウスの広い肩にそっと腕を回し、彼の頭を自身の胸元へと静かに引き寄せた。
それは、暴漢に襲われた馬車のシェルターの中で、ユリウスがリリアを庇うために抱きしめてくれた構図と、全くの逆転であった。あの時、自らの身体を挺して物理的な脅威から守ってくれた彼に対し、今度はリリアが彼の傷ついた「心」を庇い、癒やそうとしていたのだ。
「リリア……」
常に警戒してきたユリウスが、初めて彼女の前でだけ無防備な顔を見せ、二人の距離がさらに縮まった。
誰にも弱みを見せられなかったユリウスの仮面が、彼女の柔らかな温もりと確かな言葉の前に、完全に崩れ落ちた。
彼はリリアの華奢な背中に腕を回し、すがりつくように強く抱きしめ返した。
「……私は、怖い。信じていた世界が足元から崩れていくのが……っ」
震える声と共に、彼の美しい藍色の瞳から、張り詰めていた感情が堰を切ったように溢れ出した。静かに伝い落ちた一筋の熱い涙が、リリアのドレスの胸元を濡らす。
完璧で孤高だった王太子の、あまりにも人間らしい脆さと涙。それを肌で感じた瞬間、リリアの表情から一切の迷いや戸惑いが消え去り、氷のような冷徹な覚悟が宿った。
(この気高く優しい方を、これほどまでに絶望させ、涙を流させた者たちを……私は絶対に許さない)
リリアはユリウスの震える背中を優しく撫でながら、暗い部屋の宙を強い眼差しで見据えた。
自分を光の世界へと引き上げてくれたこの愛する人を守るためなら、どんな残酷な運命とも戦い、彼を脅かす敵を完全に叩き潰す。
慰め合う静寂の中で、身分や立場という見えない壁はとうに消え失せていた。互いの弱さを補い合い、背中を預け合う対等なパートナーとしての深く強固な絆が、この夜、二人の間に確かなものとして結ばれたのである。




