第32話 不審な合図
グランデリア王国の王都セント・グランデから少し離れた街道を、王家の紋章が刻まれた豪奢な馬車が滑らかに進んでいた。
この日、王太子ユリウスは地方都市の視察へ向かっていた。次期国王としての実務の一環であるが、その車内は外の物々しい警戒態勢とは裏腹に、春の陽だまりのような穏やかで温かな空気に包まれていた。
「――それで、その古代帝国の商人は、関税をごまかすために特産品のワインをどうやって運んだというんだい?」
「はい。彼らはワインを水桶の底に隠すのではなく、わざと香りの強い香辛料と一緒に荷馬車に積み込んだのです。国境の役人たちは香辛料の強烈な匂いに気を取られ、ワインの甘い香りには全く気づきませんでした。人間の感覚の盲点を突いた、非常に古典的ですが巧妙な手口ですわ」
向かいのベルベットの座席に座るユリウスに向けて、リリアは古書店で読み耽った歴史書の知識を誇らしげに、けれどどこか楽しげに語った。
その生き生きとした表情を見たユリウスは、深い藍色の瞳を細め、堪えきれないといったように喉の奥で低く笑い声を上げた。
「なるほど、見事な知恵だ。だが、それ以上に私を驚かせるのは、君のその尽きることのない知識欲だよ。リリア、君と話していると、王宮の退屈な政務報告が嘘のように新鮮なものに思えてくる」
「もったいないお言葉ですわ、殿下。私はただ、本を読むのが好きなだけで……」
「謙遜することはない。君のその聡明さは、私の何よりの誇りだ」
ユリウスは身を乗り出し、リリアの白い手をそっと取って自らの唇を落とした。手の甲に伝わる柔らかな感触と熱に、リリアの頬がみるみるうちに赤く染まる。
常に命を狙われる過酷な環境で生き、周囲の全てを警戒してきた王太子が、リリアの前にいる時だけはこうして無防備で甘い顔を見せる。孤児として泥の底を這いずり回っていた彼女にとって、この圧倒的に美しく気高い青年から向けられる無条件の愛情は、いまだに夢のようでくすぐったかった。
「殿下、からかわないでください。外には護衛の騎士たちが大勢いるのですよ?」
「構わないさ。彼らには車内の声など聞こえない。それに、私たちが仲睦まじくしていることを隠す必要がどこにある?」
ユリウスは悪戯っぽく微笑み、リリアの手を離そうとしない。リリアは恥ずかしさに俯きながらも、その温もりを愛おしく感じていた。
ふと窓の外へ視線を向けると、馬車のすぐ横を騎乗して進む騎士団長レオンの逞しい横顔が見えた。
屈強な体格と誠実な顔立ちを持つ彼は、ユリウスが最も信頼を寄せる守護者である。周囲を油断なく見回すその頼もしい姿に、通常であれば誰もが絶対の安心感を抱くはずだった。
しかし、リリアの胸の奥には、数日前に王宮の回廊で見かけた奇妙な光景が、小さなトゲのように引っかかっていた。
(あの時、フェリックス殿下とレオン様が交わした、あの一瞬の視線……。どうしても、ただの臣下の礼には見えなかった)
大人の悪意に敏感なリリアの直感が、警鐘を鳴らし続けている。しかし、確たる証拠は何もない。ここで不用意に疑念を口にして、ユリウスの数少ない信頼を揺るがすわけにはいかなかった。リリアは胸の内のざわめきを静かに押し殺し、再びユリウスへと微笑みを向けた。
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その平穏は、唐突に、そして暴力的に破られた。
「止まれッ!! 前方に何者かいるぞ!」
馬車の外から、レオンの鋭い怒号が響き渡った。
直後、馬車が激しく急ブレーキをかけ、車体が大きく揺れる。リリアは座席から転げ落ちそうになったが、ユリウスが素早く力強い腕で彼女の肩を抱き留めた。
「殿下、一体何が……!?」
「伏せていろ、リリア。外に出るな」
ユリウスの声は一瞬にして甘さを消し去り、冷徹な王太子のそれへと変わっていた。彼はリリアを自身の背後に庇うようにし、腰に帯びた剣の柄に手をかける。
外からは、金属が激しくぶつかり合う剣戟の音と、馬のいななき、そして騎士たちの怒声が入り乱れて聞こえてきた。
リリアはユリウスの背中にしがみつきながら、恐る恐る窓枠から外の様子を窺った。
街道の木々の陰から、黒い布で顔を覆った暴漢たちが数名、手にした凶刃を振りかざして護衛の騎士たちに襲いかかっていた。
その中でもひときわ体格の良い二人の暴漢が、他の騎士たちを掻き分け、ユリウスの乗る馬車へと一直線に突進してくる。
「殿下には指一本触れさせんッ!」
立ち塞がったのは、騎士団長レオンだった。
彼は抜刀するや否や、凄まじい剣幕で先頭の暴漢に斬りかかった。銀の閃光が走り、暴漢の一人が血飛沫を上げて倒れ伏す。
しかし、その激しい攻防の最中、レオンは敵の刃を避けきれず、自身の左腕に浅い傷を負ってしまった。
「くっ……!」
苦悶の声を漏らし、体勢を崩すレオン。
だが、その一連の動きを見ていたリリアの鋭い観察眼は、ある異様な瞬間に釘付けになっていた。
(え……?)
レオンが腕に傷を負う直前。彼と、もう一人の生き残った暴漢の視線が交錯した。
ほんの僅かな時間。しかし、古書店で他国の軍事心理学や暗殺者の行動規範に関する記述を読み漁っていたリリアには、それが単なる偶然ではないと直感できた。
レオンの顎が微かに動き、その瞳が「今だ」と明確な目配せの合図を送っていたのだ。




