第31話 フェリックス第二王子
執務室での対話を終え、ユリウスとリリアは王宮の長く美しい回廊を連れ立って歩いていた。
高い天井には繊細なフレスコ画が描かれ、磨き上げられた大理石の床が窓から差し込む陽光を反射している。先ほどまでリリアを苛んでいた、分不相応な場所にいるという萎縮した感情は、今はもう綺麗に消え去っていた。
ただ守られるだけの対象ではなく、彼の隣に立つ「対等のパートナー」としての覚悟を決めたからだ。背筋を伸ばし、堂々と歩くリリアの横顔を、ユリウスはどこか誇らしげな、そして甘い眼差しで見つめている。
そんな二人の数歩後ろには、王太子の側近にして騎士団長であるレオンが、油断のない足取りで護衛として付き従っていた。屈強な体格と誠実そうな顔立ちを持つ彼は、いかなる時も主君の背中を守る頼もしい武人として、王宮内でも厚い信頼を集めている。
穏やかな空気が流れる中、回廊の角を曲がった先から、数人の従者を連れた華やかな人影が近づいてくるのが見えた。
豪奢な衣装に身を包んだその青年は、ユリウスに引けを取らない整った容姿をしていた。しかし、ユリウスの纏う静謐で気高い空気とは異なり、彼の目つきにはどこか刺々しい険があり、人を値踏みするような冷たい笑みを常に浮かべている。
(あの方は……)
「やあ、兄上。こんな所で奇遇ですね」
声をかけてきたのは、ユリウスの弟である第二王子フェリックスであった。
優秀すぎる兄に対して強い劣等感を抱いているフェリックスとユリウスの間には、次期国王の座を巡る静かな確執が存在している。表面上はにこやかな兄弟の会話だが、そこにはヒリヒリとした緊張感が漂っていた。
「フェリックスか。奇遇だな」
ユリウスは足を止め、冷静な声で応じた。そして、隣に立つリリアへと手で促す。
「紹介しよう。彼女が私の婚約者となった、リリアだ」
「初めまして、フェリックス殿下。豪商アルバートが養女、リリアと申します。以後、お見知りおきを」
リリアはドレスの裾を優雅につまみ、古書店で学んだ知識とアルバートの屋敷で培った完璧な貴族の作法で、一切の隙がない美しいカーテシー(挨拶の礼)を披露した。
その完璧な所作に、フェリックスの冷ややかな瞳の奥で、微かに警戒の光が閃いた。
「これはこれは、ご丁寧なあいさつをいただきまして、こちらこそよろしくお願いいたします」
フェリックスは慇懃無礼に微笑み返した。
彼は、王宮の夜会で、ユリウスが初めて会ったばかりのこの得体の知れない令嬢を突然婚約者に指名したことを知っている。
表向きは「命を救われた恩」とされているが、王位継承権を争うフェリックスにとって、兄の予測不能な行動は不気味であった。この平民上がりの女とユリウスが、何か自分に不都合な陰謀を企んでいるのではないかと、腹の底で探りを入れていたのだ。
「それにしても、兄上」
フェリックスは面白がるように目を細め、リリアの顔を舐めるように見つめた。
「リリアさんがお美しいのはわかりますが、兄上はなぜ彼女を選ばれたのですか? それも、出会ってからたった一時で婚約を発表されるなど、あまりにも性急すぎるのではありませんか?」
それは、周囲の古参貴族たちが口にするような「平民の成り上がりを妃にするなど狂気の沙汰だ」という非難を、巧妙にオブラートに包んだ意地悪な問いかけだった。
一歩間違えれば、リリアの出自を嘲笑する空気が場を支配しかねない。
しかし、ユリウスは全く動じることなく、フェリックスの冷たい視線を真っ向から受け止めた。
「不思議に思うかい? だが、私にとっては至極当然の決断だった」
ユリウスはリリアの肩をそっと抱き寄せ、堂々とした声で言い放った。
「人を好きになるということに、時間は関係ないということだよ。フェリックス」
その言葉は、回廊に響き渡るほど力強く、一切の迷いがなかった。
たとえ出会いが一時であろうとも、彼女の勇気と魂の美しさに惹かれた事実に嘘はない。ユリウスのその迷いのない断言に、フェリックスの顔から一瞬だけ余裕の笑みが消え去り、舌打ちを堪えるような表情が浮かんだ。
「……なるほど。兄上がそれほどまでに熱を上げられるとは。これは失礼いたしました。どうか、末長くお幸せに」
フェリックスは白々しい祝福の言葉を残し、足早に立ち去ろうと身を翻した。
「行こう、リリア。彼にかまう必要はない」
ユリウスもまた、リリアを伴って再び歩き出そうとする。
だが、すれ違いざまのその瞬間。
リリアの鋭い観察眼が、ある奇妙な光景を捉えていた。
立ち去ろうとするフェリックスが、ユリウスの背後に控えていた騎士団長レオンの横を通り過ぎる際。
ほんの一瞬、瞬きをするよりも短い刹那であったが、フェリックスの冷ややかな視線と、誠実な武人であるはずのレオンの視線が、確かに空中で絡み合ったのだ。
(え……?)
それは、単なる主君の弟に対する臣下の礼などではない。
互いの意図を確認し合い、何か秘密の合図を送るような、極めて意味深で濃厚な視線の交錯だった。
フェリックスが通り過ぎると、レオンの表情は瞬時に「忠実な騎士団長」のそれに戻り、何事もなかったかのようにユリウスの後方へと控えている。
リリアは思わず足を止め、遠ざかっていくフェリックスの後ろ姿と、背後のレオンを交互に見やった。
(今の視線は、一体……?)
ユリウスが最も信頼する右腕であるレオンと、兄を疎ましく思っている第二王子のフェリックス。決して交わるはずのない二人の間に、目に見えない奇妙な糸が繋がっているような不気味な感覚。
十歳の頃から過酷な裏路地で生き抜き、常に大人の嘘や悪意を警戒してきたリリアの直感が、激しい警鐘を鳴らしていた。
「どうした、リリア? 顔色が優れないようだが」
立ち止まったリリアに気づき、ユリウスが心配そうに覗き込んでくる。
「あ……いえ。なんでもありませんわ、殿下」
リリアは慌てて微笑みを作り、歩調を合わせた。
証拠は何もない。ほんの一瞬の視線の交わりだけで、ユリウスの最も信頼する側近を疑うなど、今はまだ口に出せるはずもなかった。
だが、彼女の胸の奥には、王宮という華やかな光の世界の裏側に潜む、どす黒い陰謀の気配が、冷たい染みのように確かに広がっていたのである。




