第30話 懐中時計の贈り物
王宮を揺るがした毒殺未遂事件を経て、リリアは正式に王太子ユリウスの婚約者として迎えられた。
彼があてがってくれた執務室のふかふかとしたソファに座り、リリアは困惑した面持ちで手元を見つめていた。
「……殿下。これは、その……?」
リリアの掌に乗せられているのは、純銀で精巧な装飾が施された、美しい懐中時計だった。蓋にはグランデリア王家の紋章が彫り込まれ、控えめながらも確かな気品を放っている。
執務机から立ち上がり、リリアの隣に腰を下ろしたユリウスは、愛おしげに彼女の銀色の髪を一房すくい上げた。彼の深い藍色の瞳が、極上の甘さを帯びてリリアを見つめる。
「君への贈り物だよ、リリア。……これからは、君が一人で孤独な十秒間を背負う必要はない。私がこの歯車音と共に、君の側で時を刻もう」
鼓膜を甘く撫でるようなロマンチックな言葉に添えて渡されたそのアイテムに、リリアの頬がカッと熱くなる。十年間憧れ続けた相手からの甘やかな庇護の申し出は、孤児として泥水をすすってきた彼女にとって、あまりにも贅沢で甘美な響きを持っていた。
しかし、その甘さの裏にある彼の「危うさ」に、リリアは気づいていた。
ユリウスはリリアを愛し、常に近くに置いておきたいと願うあまり、彼女に対して完全に過保護になっていたのだ。
「暗殺者の証拠集めはレオンたち近衛騎士に任せておけばいい。君は危険な真似などせず、ただ私のそばで安全に笑っていてくれればいいんだ」
そう言って、彼はリリアが事件の真相究明に関わることから遠ざけようとしている。常に命を狙われる過酷な環境で生きてきた彼にとって、見つけたばかりの唯一の安らぎであるリリアを失うことは、何よりも恐ろしいことなのだ。
リリアは手の中の懐中時計をそっと開いた。
チクタク、チクタク……。
静かな部屋に、規則正しく無機質な秒針の音が響く。
かつて、薄暗くカビ臭い裏路地の部屋で、ガストンに怯えながら聞いていた古びた振り子時計の音とは違う。それは精巧で、洗練された時を刻む音だった。
その正確なリズムに耳を澄ませていたリリアは、ふとあることに気がついた。
(この時計が刻む一秒の間隔……私が『チクタクリターン』を使う時の、あの十秒間を遡る体感時間と、完全に一致しているわ)
十秒戻った時点が限界のセーブポイントとなり、そこから経過した秒数分しか戻れないという彼女の能力の制約。これまでは感覚に頼るしかなかったが、手元にあるこの時計の音さえあれば、能力を発動した際に自分が今、何秒経過したかを正確に把握することができる。十秒という限界ギリギリのタイミングを、これ以上ないほど精密に見極められるようになるのだ。
それは奇しくも、彼が自分を危険から遠ざけるためにくれたロマンチックな贈り物が、リリア自身の能力を極限まで引き出し、共に戦うための最大の武器になることを意味していた。
リリアは懐中時計を胸元でぎゅっと握りしめ、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……殿下。この素晴らしい贈り物、心より感謝いたします」
リリアの声音から先ほどまでの恥じらいが消え、静かな、しかし決して引かない強い芯のある響きへと変わった。
「ですが、私はただ殿下の背中に隠れ、守られるだけの存在になることを良しとはいたしません」
「リリア……? 何を言っている。君は私の大切な婚約者だ。私が君を危険から遠ざけたいと思うのは当然だろう?」
ユリウスの藍色の瞳に、戸惑いと焦りが浮かぶ。彼は幼い頃から暗殺の危機に晒され続け、誰も信じられない孤独の中で生きてきた。だからこそ、自らの命を救ってくれたリリアだけは、安全な鳥籠に閉じ込めておきたいと願ってしまうのだ。
「そのお気持ちは痛いほどわかります。ですが、どうか私を鳥籠に閉じ込めないでください」
リリアは、ユリウスの大きな両手を自らの手でしっかりと包み込み、真正面から彼の瞳を見据えてぶつかっていった。
「私は、殿下の隣に立つために今日まで生きてきました。学校へも通えず、文字すら読めなかった私が、古書店で得た知識も、十秒だけ時を戻すこの能力も……すべては、殿下をお守りし、共に戦うための力です」
ただ庇護されるだけの、か弱い妃でいるつもりはない。逆境に負けず、大人の悪意にも屈することなく、泥の底から自らの足で這い上がってきた努力家としての真の強さが、彼女の眼差しにははっきりと宿っていた。
「どうか、私も共に戦わせてください。殿下の命を狙う真の悪を突き止めるため、私の力と知識を使わせてください」
静かな執務室に、リリアの真っ直ぐで力強い言葉が響き渡る。
ユリウスは目を見開き、息を呑んだ。
彼の目の前にいるのは、守るべきか弱い少女ではない。自分の足で確かな大地を踏みしめ、自らの意志で運命を切り拓こうとする、気高く勇敢な一人の女性だった。
彼女の勇敢さに触れた瞬間、ユリウスの中で何かが大きく音を立てて崩れ去った。
それは、彼女を単なる「庇護すべき対象」として囲い込もうとしていた、彼自身の独りよがりな過保護さだった。
「……ああ、そうか。私はとんでもない思い上がりをしていたようだ」
ユリウスは自嘲気味に微笑むと、リリアの細くも力強い手を握り返した。
「君は、誰かに守られるだけの存在には収まらない。あのパーティーの日から、私を何度も暗殺や孤独から救い出してくれたのは、いつだって君のその強さと覚悟だった」
ユリウスの深い藍色の瞳に、これまでにないほど強烈な熱と、逃れられないほどの深い愛情が灯る。
彼はリリアを単なる愛すべき婚約者としてだけでなく、背中を預け、生涯を共に歩む「対等のパートナー」として強烈に意識していた。その気高く勇敢な姿に、彼は今度こそ完全に心を奪われたのだ。
「わかった。君のその力と知識を、私に貸してくれ。……共に戦おう、私の最愛のパートナー」
「はい、ユリウス様」
二人の視線が交差する。庇護者と被庇護者という関係を乗り越え、真の意味で肩を並べた瞬間だった。リリアの胸元では、ユリウスから贈られた懐中時計が、二人の新しい未来を刻むように静かにチクタクと音を立てていた。




