第26話 旅立ち
王宮の夜会で正式に王太子ユリウスの婚約者として発表された翌朝。
豪商アルバートの屋敷の正面玄関には、リリアを王宮へと迎え入れるための豪奢な馬車が静かに停車していた。
孤児院から引き取られ、メイドとして過ごしたこの温かな屋敷から、アルバートの養女としての突然の旅立ち。
玄関ホールには、別れを惜しむために屋敷中の執事やメイドたちが集まっていた。
「リリア先輩……うぅっ、行かないでください……」
「あなたが淹れてくれるお茶が、もう飲めなくなるなんて」
かつてリリアが火傷を負いながら庇った新米メイドをはじめ、古株の使用人たちまでもが目頭を押さえてすすり泣いている。
孤児院上がりだと侮られていた日々はとうの昔に終わり、リリアはその圧倒的な教養と、誰に対しても変わらぬ深い慈愛によって、屋敷の全員から心から愛され、慕われる存在になっていたのだ。
(みんな……本当に、ありがとう)
リリアもまた、胸の奥が熱くなるのを感じながら、一人一人に深く頭を下げて回った。
だが、その中で誰よりも激しく涙を流し、リリアのドレスの袖をきつく握りしめて離そうとしない者がいた。
愛らしい令嬢、クロエであった。
「嫌よ……嫌っ! お姉様が遠くへ行っちゃうなんて、絶対に嫌!」
クロエは大粒の涙をポロポロとこぼし、子供のように泣きじゃくっていた。極度の人見知りだった彼女を孤独な殻から救い出してくれたのは、他でもないリリアである。
クロエはリリアの腕にすがりつき、顔を真っ赤にして叫んだ。
「相手が次期国王の王太子殿下だろうと、私は認めないわ! お姉様を連れて行くなんて、絶対に許さないんだから……っ!」
普段は大人しく心優しいクロエが、王族に対してこれほど強い言葉を口にするのは、それだけリリアを真の家族として深く愛している証拠だった。
リリアは困ったように、しかし限りなく優しい微笑みを浮かべると、クロエの小さな身体を強く抱きしめた。
「ごめんなさい、クロエお嬢様。急なお別れになってしまって……。でも、泣かないで」
リリアはクロエの背中を優しく撫でながら、耳元で温かく囁いた。
「私のお家は、いつだってこのアルバート邸です。王宮へ行っても、時間をつくって必ず、あなたと一緒に温かいお茶を飲みに帰ってきます。約束しますわ」
「ほんと……? 絶対に、会いに来てくれる……?」
「ええ、もちろん。私のかけがえのない、可愛い妹ですもの」
その言葉に、クロエはしゃくり上げながらも、リリアの胸に顔を埋めて何度も頷いた。
二人の様子を温かく見守っていたアルバートが、静かに歩み寄り、クロエの震える肩を優しく抱き寄せた。
「クロエ、我慢しなさい。これはリリア自身が選び取った、彼女の幸せのための旅立ちなんだ。私たちの自慢の家族を、笑顔で送り出してやろうじゃないか」
「……お父様……。うぅ、はい……っ」
アルバートの懐の深い言葉に諭され、クロエは必死に涙を拭い、真っ赤な目でリリアに微笑みかけようと努めた。
血の繋がりなどなくとも、ここには確かに本物の家族の絆があった。
「お父様、クロエお嬢様。皆様……本当にお世話になりました。行ってまいります!」
リリアは全員に向けて、この屋敷で身につけた最も美しく完璧なカーテシー(挨拶の礼)を披露した。
そして、差し込む朝の光の中、彼女は誇り高く胸を張り、王宮の馬車へと乗り込んだ。
ゆっくりと車輪が回り始め、手を振る家族と使用人たちの姿が遠ざかっていく。
リリアは流れる景色を見つめながら、これから待ち受ける王宮での未知の生活と、愛するユリウスの隣で共に戦う未来に向けて、静かに覚悟を新たにするのであった。
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太陽と交易の国グランデリア王国の中枢である王宮内は、いまだかつてないパニック状態に陥っていた。
「殿下! いくらなんでも、婚約者とはいえ婚姻前の令嬢を殿下の私室に住まわせるなど、前代未聞でございます!」
重厚な執務室の扉の前で、騎士団長であるレオンが苦渋に満ちた声を上げていた。屈強な体格と誠実な顔立ちを持つ彼は、王太子の側近にして最も信頼の厚い守護者である。
しかし、その執務机に座るユリウスは、山積みにされた書類から視線を外すことなく、冷ややかに言い放った。
「私の命を狙った暗殺者は、まだこの王宮のどこかに潜んでいる。そして、私の命を救ったリリアもまた、次に狙われる可能性が極めて高い。彼女を私の目の届かない場所に置くことなど、断じてあり得ない」
「しかし、それでは私共近衛騎士が警備しづらいのです。せめて別室に……」
「くどいぞ、レオン。これ以上、この話に付き合うつもりはない」
絶対的な王太子の威厳に押され、レオンは「……御意」と短く頭を下げるしかなかった。
部屋の隅でそのやり取りを聞いていたリリアは、困惑で身を縮めていた。
(まさか、こんなことになるなんて……)
昨夜、アルバートの養女として正式に婚約者として迎えられたリリアだったが、まさか翌日からユリウスと同じ部屋で寝起きし、生活を共にすることになるとは夢にも思っていなかった。
孤児院やメイドとして働き詰めの人生だった彼女にとって、同い年の、しかも十年間憧れ続けた美しい男性との共同生活は、心臓が休まる暇がないほどの緊張を強いるものだった。
ユリウスの警戒心は常軌を逸するほど徹底していた。
リリアが部屋を出るのは、入浴とトイレの時のみ。その間、ユリウスは自身がいる重厚な扉の鍵を内側から厳重にかけ、リリアが戻ってくるまでレオンたち近衛騎士さえも部屋の外に締め出し、決して誰も中へ入れようとはしなかったのだ。




