第24話 毒の証明
大広間は鼓膜を破るような悲鳴と怒号に包まれた。近衛兵たちが剣の柄に手をかけ、殺気を放ちながらリリアへと殺到してくる。
しかし、リリアは一歩も引かなかった。彼女は凛とした声で、真っ直ぐにユリウスを見つめたまま叫んだ。
「お待ちください! そのワインには、毒が入っていたのです!」
その言葉に、会場が水を打ったように静まり返った。
だが、すぐに冷ややかな嘲笑と怒りがそれを塗り潰す。
バルコニーから見下ろしていた国王が、絶対的な権力者としての威圧感を放ちながら重々しい声を発した。
「どこぞの令嬢かわからぬが、出まかせを申すか。もし言いがかりであれば、その首と引き換えになるぞ」
誰もリリアの言葉を信じようとはしない。ユリウスでさえ、戸惑うように空になった己の手を見つめている。
(どうすれば、信じてもらえるの……?)
リリアが唇を噛み締めたその時だった。
「ニャア……」と、足元から小さな鳴き声が聞こえた。
見れば、王宮で飼われているらしい一匹の美しい白猫が、床にこぼれた赤いワインの甘い香りに誘われて近づいてきていた。
そして、誰も止める間もなく、猫はその赤い液体をペロリとひと舐めしてしまったのだ。
(あっ……!)
直後。
「ギャーッ!」
白猫は突如として悲痛な鳴き声を上げ、その場にバタリと倒れ込んだ。小さな身体が痙攣し、口からドクンと鮮血が吐き出される。
「ひぃっ!?」
「ま、誠に毒が……!」
リリアは反射的に目を強く閉じ、連続で三回マバタキをしようとした。
彼女の能力『チクタクリターン』を使えば、十秒前に戻り、猫がワインを舐めるのを防ぐことができる。
だが、リリアの瞼は二回目のマバタキでぴたりと止まった。
(もしも、もしもここで時間を戻して猫を助けたら、このワインに毒が入っていたという証拠が、完全に消え失せてしまう……!)
証拠がなければ、リリアはただ王太子に無礼を働いた大罪人として処刑される。
(ごめんなさい……本当に、ごめんなさいっ……!)
リリアはドレスの裾を強く握りしめ、胸が張り裂けそうなほどの罪悪感に苛まれながら、心の中で何度も小さな命へ謝罪した。リリアは今、自分を守るために、この無垢な猫に犠牲を強いている。
凄惨な光景を目の当たりにし、貴族たちが顔面を蒼白にして後ずさる。
リリアは弾かれたようにしゃがみ込むと、絹のハンカチを取り出し、猫の口元の血を素早く拭った。
「誰か! 早くこの子をお城の獣医のところへ運んであげてください! 一刻を争います!」
自分の命すら危うい状況でありながら、必死に小さな命を救おうとするリリアの気迫に押され、一人の騎士が慌てて猫を抱き上げ、広間の外へと走り去っていった。
ワインに致死量の毒が入っていたことは、これ以上ないほど明確に証明されたのだ。
「……確かに、毒は入っていたようだな」
だが、バルコニーから見下ろす国王の眼差しは、依然として氷のように冷たかった。
「しかし、お前はなぜ、飲む前にそれを知っていたのだ? まさか、お前自身が毒を仕込み、自作自演で恩を売ろうとしたのではないのか?」
国王の冷酷な言葉に、周囲の貴族たちも同調して一斉に疑いの目を向けてくる。
絶体絶命の状況下で、リリアは震えそうになる膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。彼女の視線は、国王でも貴族たちでもなく、ただ一人、ユリウスの深い藍色の瞳だけを真っ直ぐに射抜いていた。
「私がなぜ毒に気づいたのか……その真実は、王太子殿下にのみ、直接お話しいたします」
「なんだと!」
「控えおろう! どこの馬の骨とも知れぬ娘と、殿下を二人きりにするなど言語道断!」
貴族たちが口々に罵声を浴びせ、大広間は再び喧騒の渦に包まれた。
しかし、今まで黙ってリリアを観察していたユリウスが、ふっと右手を挙げて周囲を制した。
「良いだろう。彼女と別室で二人きりで話す」
「ユリウス! 正気か!」
「ご安心ください、父上」
ユリウスは静かに、しかし王太子としての絶対的な威厳を込めて微笑んだ。
「万が一、彼女に悪意があったとしても、こんな華奢なご令嬢にかなうくらいには、私も剣術を心得ております。それに――」
ユリウスは、リリアの瞳の奥にある強い光を見つめ返した。
「彼女の目は、私を害そうとする者の目ではない」
その断固たる言葉に、周囲の者たちはそれ以上反論することができなかった。
後から到着した豪商アルバートが、代役として送り出した自分の「娘」を心配そうに見守る中、リリアはユリウスの先導で大広間を後にした。
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王宮の奥にある、分厚い扉で閉ざされた豪奢な別室。
二人が中に入り、重々しい音を立てて扉が閉まると、外の喧騒は完全に遮断された。
その瞬間だった。
ユリウスの身体から、先ほどまで纏っていた完璧な王太子としての威圧感がふっと抜け落ちた。
彼は壁に背を預け、まるで張り詰めていた糸が切れたように、深く、重い息を吐き出した。その横顔には、大広間では決して見せなかった無防備な疲労と、得体の知れない暗殺の恐怖と戦い続けてきた孤独の色が濃く滲み出ていた。
「……不思議だな。いつもなら、素性の知れない人間と二人きりになるなど、絶対に避けるのに」
ユリウスは自嘲気味に呟きながら、長い睫毛を伏せた。
「君の目を見ていると、どうにも嘘をつかれている気がしないんだ。……さあ、教えてくれ。君は一体何者で、どうやって私の命を救った?」
弱さを隠そうともしない彼の姿に、リリアは胸がギュッと締め付けられるような愛おしさを覚えた。
十年間、ずっと憧れ続けてきた人。彼がどれほど過酷な世界で生きているのか、痛いほどに伝わってくる。
「私は……豪商アルバート家のメイド、リリアと申します。本日は、お嬢様の代役として偶然に参りました」
リリアはドレスの胸元に手を入れ、ずっと肌身離さず持ち歩いていた『ある物』をそっと取り出した。
「そして……殿下に真実をお話しする前に、これを見ていただきたかったのです」
差し出されたのは、純白の絹に金糸で王家の紋章が刺繍された、古びたハンカチだった。先ほど猫の血を拭ったものとは違う、彼女が最も大切にしてきた宝物。
それを見た瞬間、ユリウスの深い藍色の瞳が驚きに見開かれた。
「それは……十年前、お忍びで訪れた古書店で、私を庇ってくれた少女に渡したもの……。そうか、君があの時の?」
「はい。あの時、殿下からいただいたこの温もりを、私は一日たりとも忘れたことはございません」
リリアが優雅に微笑むと、ユリウスは息を呑み、そして次の瞬間、憑き物が落ちたような柔らかく甘い微笑みを浮かべた。
「そうか。あの時の勇敢な少女が、これほど美しく、見事な女性に成長していたとは……」
ユリウスの瞳から、リリアに対する僅かな警戒心すらも完全に消え去った。
彼が心からの信頼を寄せたことを確信し、リリアは静かに口を開いた。自分が持つ能力のこと、そして大広間で何が起こっていたのかを、全て打ち明けるために。




