第23話 最短ルート
強烈な浮遊感と逆再生の不協和音が鳴り止むと、足の裏に再び王宮の分厚い絨毯の感触が戻った。
リリアの視界には、豪奢なシャンデリアの光の下で談笑する貴族たちの姿があった。遠く離れた場所では、王太子ユリウスが給仕からグラスを受け取ろうとしている。
時間は確かに、彼が毒入りのワインを口にする数秒前へと巻き戻っていた。
「殿下……!」
悲鳴のような声を飲み込み、リリアは床を蹴った。
だが、リリアの現在地からユリウスが立っている場所までの間には、色鮮やかなドレスや夜会服に身を包んだ大勢の貴族たちがひしめき合っている。
リリアは『星結びの絹』で仕立てられたドレスの裾をはしたなく捲し上げ、人々の隙間を縫うようにして必死に駆け出した。
「おや、あのご令嬢は……」
「危ないではありませんか」
突然走り出したリリアに、貴族たちが眉をひそめて道を塞ぐ。
右へ左へと身体を捻り、なんとか障害物を躱そうとするが、ふくよかな夫人の大きく広がるドレスの裾に足を取られ、歩みが鈍る。
前方の隙間を抜けようとした瞬間、談笑していた紳士が身振り手振りを交えて一歩後退し、リリアの行く手を完全に塞いでしまった。
「失礼……!」
強引に押し退けようとしたが、時すでに遅かった。
人垣の隙間から見えたのは、ユリウスが深く濃い赤色をしたグランデ・ワインのグラスを傾け、その口元に運ぶ姿だった。
(駄目、間に合わない!)
毒が彼の喉を焼く光景を再び目の当たりにすることだけは、絶対に耐えられない。
ユリウスがワインを飲み干す直前、リリアは強く瞼を閉じ、連続で三回、マバタキをした。
パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。
再び世界が歪み、時間が数秒前、すなわち最初のセーブポイントへと遡行する。
リリアの能力には制約がある。十秒戻った後、そこからさらに過去へ無限に遡ることはできない。最初に能力を使ったあの時点が限界点であり、やり直せるのは常に、ユリウスがワインを飲むまでの『数秒間』だけなのだ。
足に床の感触が戻った瞬間、リリアは再び駆け出した。
先ほど、ふくよかな夫人が右へ動くことはわかっている。リリアはあらかじめ左へと進路を取り、夫人の横をすり抜けた。
しかし、その先で談笑していた紳士が後退してくる。それを予測して右へステップを踏むが、今度は飲み物を運んでいた別の給仕と接触しそうになり、立ち止まらざるを得なかった。
「申し訳ございません」
給仕が頭を下げるほんのわずかなタイムロス。
視線を上げると、またしてもユリウスの唇にグラスが触れようとしていた。
(まだ足りない……もっと速く、もっと正確に!)
三度目のループ。
四度目のループ。
リリアは何度も何度も、狂ったように時間を巻き戻し続けた。
精神的な疲労と極度の緊張で、息が上がり、額には汗が滲む。それでも、彼女の足を止めるものは何一つなかった。
十歳のあの日から、暗い泥の底で泥水にまみれながら、ずっと見上げてきた眩い光。その光が失われる恐怖に比べれば、己の身体の悲鳴など些末な問題でしかなかった。
リリアの卓越した頭脳は、古書店の希少本を読み解く時以上の凄まじい集中力を発揮し、眼前の『十秒間の未来』を完全に解析し始めていた。
開始一秒。右側の夫人が扇子を広げ、半歩左へ寄る。
三秒後。手前の紳士が笑い声を上げながら、右足から後退する。
五秒後。銀のトレイを持った給仕が横切り、二人の若い令嬢が進路を塞ぐ。
七秒後。ユリウスがグラスを受け取り、視線を僅かに落とす。
誰が、どのタイミングで、どこに動くか。
その全てを、リリアは網膜と脳髄に焼き付けた。まるで複雑な他国語の暗号を解読するように、何十人もの貴族たちの微細な動きを把握し、一切の無駄なく彼らの間をすり抜けるための最短ルートを死に物狂いで模索していく。
そして、幾度もの限界ギリギリのループの末。
リリアの頭の中に、ユリウスへと到達する完璧な道筋が浮かび上がった。
(次こそは、いける……!)
最後のループ。
時間が巻き戻った直後、リリアは一切の躊躇なく床を蹴った。
夫人が扇子を広げるそのコンマ一秒前に、彼女の右側を風のようにすり抜ける。
紳士が後退する直前、その背中スレスレの空間を滑るように通り抜ける。
給仕が横切るタイミングを完璧に見切り、足を止めることなく、令嬢たちのドレスの隙間を軽やかに駆け抜ける。
美しい『星結びの絹』がシャンデリアの光を反射して軌跡を描き、誰もが彼女の唐突な、しかし流れるように優雅な動きに目を奪われた。障害物はもはや一つも存在しないかのように。
リリアの目の前に、ユリウスの姿が迫る。
彼は深く濃い赤色のグランデ・ワインが入ったグラスを右手に持ち、ゆっくりと口元へ運ぼうとしていた。
あと二歩。手を伸ばせば届く距離。
しかし、そのグラスを力一杯払いのけようと右腕を振り上げた瞬間、リリアの脳裏に、古書店の歴史書で読んだある冷酷な法律が稲妻のように閃いた。
『王族に対する直接的な暴力行為、並びにその名誉を著しく損なう行為は、平民の身分であればいかなる理由があろうとも極刑に処す』
たとえ彼を救うためであったとしても、大勢の貴族たちの目の前で、身分卑しき者が次期国王である王太子のグラスを叩き落とすという行為は、明確な大罪に問われかねない。
最悪の場合、捕らえられ、断頭台へ送られる。自身の命がここで終わるかもしれないという恐怖が、リリアの指先をほんの一瞬だけ強張らせた。
(……それでも)
リリアは強く奥歯を噛み締めた。
自分の命など、どうでもいい。
十歳の時に彼を見た日から、リリアの心は彼に救われていたのだ。彼が生きているこの世界こそが、リリアにとっての希望であり、守るべき全てだった。
極刑に処されようと、彼を失うよりはマシだ。この命に代えても、敬愛する人を救い出す。
迷いは完全に消え去った。
ユリウスへの無償の愛と、死すら恐れぬ勇敢さが、リリアの腕に渾身の力を宿らせる。
「殿下ッ!!」
リリアの叫び声が、優雅な音楽が流れる夜会の会場に鋭く響き渡った。
驚いて顔を上げたユリウスの唇に、毒入りのワインが触れるまさにその刹那。
限界ギリギリのタイミングで間に合ったリリアの右手が、凄まじい勢いでグラスの側面を打ち払った。
パシャーンッ!!!
甲高い破砕音が、広大な王宮の広間に木霊する。
手から弾き飛ばされたグラスは宙を舞い、美しいクリスタルが粉々に砕け散った。深く濃い赤色のワインが、まるで鮮血のように大理石の床へと飛散し、残酷な染みを作っていく。
静寂。
一瞬前まで華やかに談笑していた貴族たちは、眼前で起きた信じがたい光景に完全に言葉を失い、凍りついていた。
何が起きたのか理解できず、ユリウスは目を見開いたまま、空になった自らの右手と、目の前で荒い息を吐いているリリアを交互に見つめた。
「き、貴様! 王太子殿下に対して何という無礼を!」
「警備の者を呼べ! 殿下からその狂人を引き剥がせ!」
数秒の空白の後、事態を呑み込んだ貴族たちの間から、悲鳴と怒号が爆発するように沸き起こった。
会場が大パニックに陥り、近衛兵たちが慌ただしく動き出す中、リリアは乱れた呼吸を整えながら、ユリウスの無事な姿をただ真っ直ぐに見つめていた。
「はぁっ、間に合って、はぁっ、……よかったわ」
周囲の非難の嵐も、自身に向けられる殺意も、今の彼女にはどうでもよかった。
ただ、彼の命を守り抜いた。
震える右手をそっと胸に押し当て、リリアは誰にも気づかれることなく、安堵の涙を瞳の奥に滲ませていた。




