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チクタクリターン ~十秒だけ時間を戻せる身代わり令嬢が、孤高にして高嶺の王太子から甘く溺愛されるまで~  作者: 団田図


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第22話 王宮の夜会

 豪奢な装飾が施された馬車が、滑らかな石畳の上を静かに滑っていく。

 リリアは馬車の柔らかなベルベットのシートに身を沈めながら、ガラス窓の向こう側に広がる王都セント・グランデの夜景をじっと眺め、深い感慨にふけていた。


 王都の夜は、幾千ものガス灯の光に照らされ、まるで地上に星屑を散りばめたかのように眩い輝きを放っている。だが、窓ガラスに薄っすらと反射する現在の自分の姿は、その華やかな夜景以上に眩い光を放っていた。


 彼女の身体を包んでいるのは、アルバートが用意した最高峰の絹である『星結びの絹』で仕立てられた特別なドレスである。光の加減によって夜空から朝焼けへと色を変える幻の生地は、王宮へと向かうにふさわしい気品と圧倒的な美しさを彼女に与えていた。


(十年前の私が今の姿を見たら、きっと幻覚だと思うでしょうね……)


 リリアの脳裏に、かつての惨めな記憶が鮮明に蘇る。

 どん底の孤児として、常に腹を空かせ、親戚の男の理不尽な暴力に怯えていたあの日々。ボロボロに擦り切れた服を着て、泥にまみれながら裏路地を這いつくばっていた。十歳の時、大通りのロイヤル・アベニューで行われたパレードで、押し寄せる群衆の隙間から懸命に背伸びをして、見上げるように豪華な馬車を見つめていた惨めな自分。


 あれから十年。


 孤児院での孤独な生活や、薄暗い古書店で埃にまみれながら他国の言語や歴史を学んだ血の滲むような努力の軌跡が、今の彼女の血肉となっている。あの泥にまみれていた少女が、今や豪商の令嬢の代役として、王宮へ向かう馬車に乗っているという強烈な対比に、リリアは思わず小さく息を吐いた。


 いざ、この国の頂点である光の世界へと乗り込む直前。彼女の胸の内には、これまでの苦労が報われるような高揚感と、張り裂けそうなほどの緊張感が激しく渦巻いていた。


 +++


 王宮の大広間は、リリアが古書店の本で読んで想像していた以上の絢爛豪華さであった。

 天井から吊るされた巨大なシャンデリアが眩い光を投げかけ、格式高い古参貴族や莫大な財力を持つ新興の豪商たちが、きらびやかな衣装を纏って集っている。


 夜会の冒頭、ざわめいていた会場がふっと静まり返り、厳かな雰囲気の中で国王がバルコニーに姿を現した。


「皆も知っての通り、余は近頃、体調不良に悩まされることが多くなった」


 静まり返った大広間に、国王の重々しいスピーチが響き渡る。


「我がグランデリア王国の未来を確固たるものにするため、近々、正式に王太子ユリウスへ王位を譲る準備があることを、ここに伝えておこう」


 その重大な発表がなされた瞬間、会場全体が堰を切ったようにざわめき始めた。王位継承が間近に迫っているという事実は、貴族たちにとって自身の権力闘争や派閥の未来に直結するからだ。

 ざわめきが波のように広がる中、リリアの視線は自然と大広間の一角へと引き寄せられていった。


(あぁ……ユリウス様)


 大勢の貴族たちがひしめく中で、リリアは遠くに王太子ユリウスの姿を発見した。

 太陽の光を反射するような美しい銀色の髪と、深い知性を感じさせる藍色の瞳。彼は周囲を取り囲む高位の貴族たちと談笑しながら、グラスを片手に優雅に微笑んでいる。


 十歳のパレードで心を奪われ、古書店で命をかけて庇ったあの日から、リリアがずっと憧れ続けてきた眩しい存在。王宮という光の世界の中心に立つ彼の姿は、あの日の馬車の小窓から見下ろしていた時と同じように、神々しいほどの美貌と気品に溢れていた。


 彼と同じ空間に居られること。そして、その美しい姿を遠くから見つめられるだけで、リリアの胸は甘く満ち足りたような密かな満足感に包まれていた。自分はただの身代わりのメイドであり、彼と直接言葉を交わすことなど望んではいない。この光り輝く世界で、彼の雄姿を遠くから見守ることができれば、ただそれだけで彼女の長年の恋心は報われるはずだった。


 歓談の時間は和やかに進み、他国から持ち込まれた軽やかな音楽が会場を満たしていた。


 談笑を続けていたユリウスの傍らに一人の給仕が歩み寄り、銀のトレイに乗せられたグラスが彼に差し出される。注がれていたのは、王宮のパーティーで振る舞われる最高級の特産品、グランデ・ワインであった。風味が豊かで色が濃いため、万が一毒を盛られても気づきにくいという恐ろしい欠点を持つそのワインを、ユリウスは警戒することなくごく自然な動作で受け取った。


 彼が貴族たちに微笑みかけながら、そのグラスを口に運ぶ。


 赤い液体が、彼の喉を通り過ぎた。


 その直後だった。


「……ッ!」


 突然、ユリウスがひどく苦しげに顔を歪め、喉元を強く押さえた。

 彼の口からドクンと鮮血が吐き出され、美しい衣装を赤く染め上げる。そして次の瞬間、糸が切れた人形のように、彼はその場に力なく倒れ込んだのだ。


「で、殿下ぁぁっ!?」

「誰か! 毒だ、ワインに毒が盛られたぞ!!」


 一瞬の静寂の後、会場は鼓膜を破るような悲鳴と怒号に包まれ、大パニックに陥った。着飾った令嬢たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、警備の騎士たちが血相を変えてユリウスの元へ駆け寄ろうとするが、混乱した人波に阻まれて進めない。


(嘘……そんな、嘘よ!)


 敬愛する人が、十年来の憧れであった彼が、目の前で血を吐いて倒れた。その凄惨な光景に、冷静さを誇っていたリリアの頭の中も真っ白になり、かつてないほどのパニックに陥った。心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、呼吸の仕方を忘れたように息が詰まる。


 だが、彼女の奥底に眠る生存本能と、絶対に彼を失いたくないという執念が、凍りついた思考を強制的に叩き起こした。


(助けなきゃ。この命に代えても、彼を絶対に救うのよ!)


 リリアは強く瞼を閉じ、咄嗟にマバタキを三回行った。


 パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。


 強烈な浮遊感と吐き気がリリアの身体を容赦なく襲う。視界が大きく歪み、悲鳴を上げる貴族たちの動きが凄まじい速度で逆行を始めた。床に倒れ込んだユリウスの体が不自然に見えない糸で引き上げられ、口から吐き出された血が逆流していく。


 耳の奥で、全てを巻き戻す不協和音が鳴り響く中、リリアは自らの能力を行使し、運命の分岐点である十秒前へと遡っていった。

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