第2話 不思議な能力
「え……?」
強烈な目眩にも似た、吐き気を催すような浮遊感がリリアの小さな体を容赦なく襲う。重力が消失したかのような感覚の中、彼女の視界に映る景色が、ありえない速度で急速に巻き戻り始めた。
建物のバルコニーから舞い落ちていた色とりどりの紙吹雪が、まるで重力に逆らうように空へと吸い込まれていく。パレードを行進する白馬の脚が不自然に後ろへと蹴り上げられ、熱狂して手を振る人々の動きが滑稽なほど不規則に逆行する。
耳を劈くような歓声や陽気な音楽のメロディが、鼓膜を叩く逆再生の不協和音となってリリアの脳内をかき乱した。
(何? なにが起きてるの!? 気持ち悪い……!)
恐怖と混乱に思考が追いつかない。自分がどうなってしまったのか、世界がどう狂ってしまったのか理解できないまま、リリアはただギュッと目を瞑って耳を塞ぎ、頭を抱えてしまった。
しかし、その異常な現象は唐突に終わりを告げた。
ふっと浮遊感が消え、足の裏に再び固い石畳の感触が戻る。おずおずと目を開けると、そこには先ほどと全く変わらないパレードの熱狂があった。
いや、変わらないのではない。時間が、正確に十秒前から再開したのだ。
地を揺らす歓声の中、リリアの目の前で、先ほどと全く同じように豪奢な装飾が施された馬車が通りかかり、窓枠からまだあどけなさの残る十二歳のユリウスが現れるという、同じシーンを目撃した。
(……同じ? さっき見たばかりなのに、どうして?)
リリアは生まれつき特殊な能力を持っていた。しかし、過酷な環境で生きる彼女はこれまでその力を引き出す機会も心の余裕もなく、これが初めて自分の能力を自覚し、使った瞬間であった。リリアのように生まれつき特殊な能力を持つ者や魔法は、この世界ではおとぎ話レベルの存在であり、本来はありえないことであった。
最初は、自分が見た幻覚か白昼夢かと訳が分からず戸惑うリリアだった。
もしかしたら、毎日の空腹と過労のあまり、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
だが、そんな混乱などすぐに吹き飛んでしまった。馬車に乗るユリウスの姿が、再び彼女の視界を通り過ぎていく。太陽の光を受けて輝く銀髪と、その深い藍色の瞳が、無情にも遠ざかってしまう。
(待って。もっと、もっとあの人を見ていたい……!)
ただひたすらに、「あの美しい王太子をもっと見たい」という純粋な思いが、恐怖や理性を完全に凌駕した。親戚の男の顔色を窺い、自分の欲求をすべて押し殺して生きてきたリリアにとって、それは生まれて初めて抱いた、明確で強烈な我儘だった。
衝動のままに、リリアは再び目を凝らし、連続で三回、マバタキをした。
パチ、パチ、パチ。
すると、またしても世界が歪み、視界が急速に巻き戻り、十秒前から再開する。再び馬車が通りかかり、ユリウスの姿が現れる。
(ああ……なんて綺麗で美しいお顔……)
リリアは何度も何度もマバタキを繰り返し、能力を使用し続けた。吐き気や浮遊感など気にならなかった。ただ、彼を網膜に焼き付けたい。自分とは違う、光の住人である彼の姿を目に収めておきたい。その一心で、彼女はひたすらに十秒間を巻き戻し続けた。
しかし、王太子を何度も見るために能力を乱用していたリリアは、ふとある違和感に気づく。
十回、二十回とマバタキを繰り返すうちに、ある一定の時間帯以上は戻ることができないのだ。
(どういうこと? 三回マバタキをした直後にマバタキしても、さらにもっと前には戻れない……)
マバタキを連続で三回行うと、十秒前に戻せる。だが、十秒戻ったそのすぐ後に再び能力を使ったとしても、そこからさらに十秒前の過去へ遡ることはできない。
一度戻った時点が限界のセーブポイントとなってしまうのだ。そこから経過したほんのわずかな秒数分しか戻れないという能力の理を、リリア自身が感覚として完全に理解した。
「これ以上前の時間には、絶対に戻れないのね……」
絶望にも似た悟りが、リリアの小さな胸を締め付けた。
何度マバタキを繰り返しても、両親が生きていた頃への無限遡行は不可能である。巻き戻せる時間は常に十秒間のみであり、現実の時間は残酷なほど静かに、確実に進んでいく。
やがて、満足したリリアは時を戻すのを辞めた。
後に残されたのは、相変わらず鼓膜を揺らす群衆の歓声と、ボロボロの服を着た惨めな自分だけだった。
(行ってしまった……)
リリアは群衆の隙間に立ち尽くしたまま、遠ざかるパレードの背中をいつまでも見つめていた。
もう二度と、あんな美しい人に出会うことはないだろう。自分は一生、あの光に触れることはなく、冷たい暗闇の中でただ生かされ続けるのだ。
しかし、あの奇跡のように美しい少年の姿と、時を巻き戻した時の強烈な不協和音だけが、感情を押し殺していたリリアの心に、決して消えることのない鮮烈な傷跡を残していた。




