第1話 王太子との出会い
太陽と交易の国、グランデリア王国は、大陸のへそに位置する交易の要衝である。四方を豊かな自然と大河に囲まれたこの国には、絶えず莫大な富と多様な物資が流れ込んでいた。他国からの商人や旅人が行き交い、様々な言語が飛び交う活気にあふれた王都セント・グランデは、まさにこの国の繁栄の象徴である。
街の中心部には天を突くような白亜の建造物が立ち並び、至る所で華やかな音楽が奏でられ、石畳の道は塵一つなく美しく磨き上げられている。
だが、それはあくまで光の当たる表側の顔に過ぎない。
この街は、貴族や富裕層の住む豪奢なエリアと、その日暮らしの貧困層が身を寄せ合う治安の悪い裏路地が明確に分かれている、厳格な階級社会であった。光が強烈であればあるほど、そこに生じる影もまた、深く濃いものとなる。
その深く淀んだ影の底で、十歳になる少女リリアは息を潜めるように生きていた。
むせ返るような湿気と、腐りかけた生ゴミの臭いが常時立ち込める裏路地。陽の光さえ満足に届かない薄暗くカビ臭い部屋の中で、リリアは背丈よりも大きな振り子式の柱時計の前に立っていた。
「おい、いつまでモタモタしてるんだ! 飯を食わしてやってる恩を忘れたのか!」
叔父、ガストンの怒声が鼓膜を打つ。狭い部屋に響き渡るその理不尽な怒りに、リリアはビクッと小さな肩を震わせた。
「ご、ごめんなさい……すぐに、終わらせます」
震える声でそう返すのが精一杯であり、反論することは絶対に許されなかった。リリアは幼いころに両親を事故で亡くし、身寄りのない孤児としてガストンに引き取られていたのだ。
しかし、そこで待っていたのは家族としての温もりではなく、徹底した搾取と暴力だった。彼女は一人の人間としてではなく、ただの厄介な邪魔者として扱われ、朝から晩まで過酷な家事手伝いをさせられながら育ってきた。
冷たい水でひび割れた手から血を滲ませながら床を磨き、ガストンの残飯をすすって飢えをしのぐ日々。無職で酒とギャンブルに溺れるガストンは、鬱憤が溜まるとその怒りをすべて非力なリリアへとぶつけてきた。
ギリリ、ギリリ……。
冷たい金属の鍵を握りしめ、重いゼンマイを巻き上げる。リリアの細い腕の筋肉が悲鳴を上げ、指先が痛みを訴える。振り子式の柱時計のゼンマイを巻きながら、リリアの胸の奥には、常に黒く渦巻くような疑問と絶望が満たされていた。
(痛い……苦しいよ……。おじさんの言う通りにできない、私が悪い子だから怒られるの……?)
チクタク、チクタクと無機質に時を刻む時計の音は、彼女の惨めな人生の残り時間を削り取っているかのように聞こえた。それは、出口のない暗闇を彷徨うような深い孤独感だった。
学校へも行かせてもらえず、同年代の友達と遊ぶこともない。文字の読み書きすらままならず、世の中の当たり前や社会の仕組みを全く知らずに生きているリリアにとって、世界とはこの薄暗い部屋と、理不尽の化身であるガストンがすべてだった。
自分がなぜここにいるのか、外の世界はどうなっているのか、何も知らされないまま鎖に繋がれている。
しかし、それでも彼女の心が完全に死に絶えなかったのは、窓の隙間から時折聞こえてくる街のざわめきがあったからだ。馬車の車輪が石畳を軽やかに鳴らす音、人々が楽しげに笑い合う声、遠くから風に乗って運ばれてくる甘い焼き菓子の匂い。それらはリリアにとって、まだ見ぬ外の世界への強烈な憧れを掻き立てる、唯一の希望の光であった。
「さっさと街へ行って、酒とツマミを買ってこい! つり銭を誤魔化すような真似をしたら、ただじゃおかねえからな!」
乱暴に投げつけられた小銭が床に散らばる。リリアは這いつくばってそれを一枚一枚拾い集め、逃げるように家を飛び出して街へ向かった。
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裏路地を抜け、大通りへと続く角を曲がった瞬間、リリアの視界は爆発するような色彩と光、そして凄まじい音の渦に飲み込まれた。
その日は、王都のメインストリートである大通りのロイヤル・アベニューにて、王族のパレードであるロイヤル・エントリーが行われていたのだ。
「わあー……!」
思わず感嘆の溜息が漏れる。広く美しい石畳の道路の両脇には、数え切れないほどの群衆が押し寄せていた。視界を埋め尽くすような色鮮やかな王家の旗印が風に翻り、建物のバルコニーからは無数の花びらや紙吹雪が空高く舞い散っている。
鼓膜を震わせるような歓声と、胸の奥まで響く荘厳な行進曲。群衆の凄まじい熱気と華やかな大通りの景色に、リリアはただただ圧倒されていた。
きらびやかな鎧を纏った騎士たちが白馬に跨り堂々と行進し、他国から持ち込まれた珍しい楽器が陽気な音色を奏でている。
そこにあるのは、グランデリア王国の光と影――すなわち、日々のパンにも事欠き、ただ生き延びるためだけに這いつくばる貧困層の現実と、すべてを生まれ持ち、煌びやかな世界で栄華を極める王族という絶対的な身分の差だった。その残酷なまでのコントラストが、明確な視覚的表現となってリリアの目を容赦なく焼いた。
(なんて、眩しいのかしら……)
リリアはあまりの眩しさに目を細めた。そしてふと、足元のすり減って穴の空いた靴と、何度も継ぎ接ぎされた薄汚れた自分の服を見下ろす。周囲の人々が身につけている色鮮やかな衣服と比べると、自分の姿はあまりにも惨めで、不釣り合いだった。
(……馬鹿みたい。私なんて、あそこを歩く人たちとは別の生き物なのに。あの光の中に入ることは絶対に許されない、そう、私は路地裏のしなびたナスビなのに)
自分はこの光り輝く世界の住人にはなれない。一生ガストンに搾取され、世の中の仕組みすら知らないまま、惨めに死んでいく運命なのだと。
それでも、抗いようのない好奇心が彼女の細い体を突き動かした。リリアは人だかりの最後尾から、人々の隙間を縫うようにして懸命に背伸びをし、パレードを覗き込もうとした。大人たちの大きな背中に視界を遮られ、押し寄せる人波に揉まれて何度も転びそうになる。息苦しい熱気の中で汗を流しながらも、つま先立ちで必死に首を伸ばした。
「ほら、来るぞ!」
「国王陛下万歳! グランデリア王国に栄光あれ!」
ひときわ大きな歓声が上がり、熱狂が最高潮に達したその時。
豪奢な装飾が施された、純白と黄金の巨大な馬車が、リリアの目の前を通りかかった。
ゆっくりと進む馬車の窓枠。
そこに乗っていたのは、まだ幼き十二歳の王太子ユリウスであった。
まるで、その瞬間だけ世界からすべての音が消え去ったようだった。
吹き抜ける風が、少年の美しい銀色の髪を揺らす。太陽の光を反射してキラキラと輝くその姿は、この世のものとは思えないほど神々しかった。彼は退屈そうに、けれどどこか慈愛を帯びた深い藍色の瞳で、熱狂する群衆を静かに見下ろしていた。
豪華な馬車の中から放たれるその圧倒的な美貌と品の良さに、十歳のリリアは息を呑んだ。自分がどれほど惨めな存在であるかという自己卑下すらも忘れ、彼女はその姿に完全に心を奪われていた。
(あんなに美しい人が、この世にいるなんて……)
その姿は、暗く淀んだリリアの世界に差し込んだ、初めての眩い光だった。彼への強烈な憧憬と、雷に打たれたような衝撃のあまり、リリアは思わず目を瞬かせた。
パチ、パチ、パチ、と連続で三回、マバタキをしてその現実離れの美貌を疑った。
その直後だった。
不意に、リリアの世界が大きく歪んだ。




