第19話 過去との決別
リリアは無意識のうちに、ガストンへ警告する叫び声を上げるために口を半ばまで開いた。
だが、その声が喉から放たれる寸前。リリアの体感時間が極限まで引き延ばされ、世界がまるで水の中に沈んだかのように、スローモーションとなって進み始めた。
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馬のいななき、車輪が石畳を削る音、大通りを行き交う人々の喧騒。それらすべての音が遠のき、リリアの目は、こちらへ向かって飛び出してくるガストンの姿だけを克明に捉えていた。
ガストンの顔には、獲物を逃すまいとする執念と、リリアの能力を利用して無限の金を手に入れようとする底なしの強欲が張り付いている。十歳の時に自分を理不尽に虐げ、薄暗い闇カジノで搾取しようとしたあの日の恐ろしい形相と、全く変わっていない。
そして、リリアの視線は自然と、彼の足元へと向けられた。
ガストンが履いている靴は、長年の不摂生と牢獄での生活を物語るように、底が擦り減り、形がいびつに歪んでいた。何より、裏路地のヘドロや泥水にまみれ、酷く汚れている。それは、彼がいまだに光の当たらない淀んだ泥の底を這いずり回る住人であることの明確な証明であった。
対して、転がり込んだリリア自身の足元。
そこにあるのは、アルバートが「我が家の大切な家族にふさわしいものを」と言って買い与えてくれた、最高級の革で作られた上質な靴であった。毎日丁寧に手入れをして磨き上げられたその靴は、大通りの陽の光を反射して、美しく艶やかな輝きを放っている。
(私たちは、もう違う世界に生きている)
リリアは、自分がすでに光の世界の住人となっていることを、その足元の対比から静かに悟った。血の滲むような努力で古書店に通い、教養を身につけ、自らの足で歩んできた結果として手に入れた、今の温かい居場所。
もし、ここで大声を出して彼を助けたら、どうなるか。
ガストンは一時の危機を免れるだろう。だが、彼のあの異常なまでの執着と強欲が消えることは絶対にない。
彼は再びリリアを追いかけ、裏のツテを使って屋敷を特定し、乗り込んでくるに違いない。自分はリリアの育ての親だという事を盾に取り、アルバートやクロエを巻き込んで、永遠に脅迫し、搾取し続けるだろう。
リリアの脳裏に、今の自分を本当の家族のように愛し、優しく包み込んでくれるアルバートの温和な笑顔と、リリアを慕って無邪気に笑うクロエの可愛らしい顔が浮かび上がった。
あの温かいティータイムが、彼らと過ごす穏やかで幸福な日常が、この薄汚れた男の手によって粉々に破壊されるビジョン。
絶対に、それだけは許されない。
(彼を助けるということは、私の大切な家族を、自ら地獄に突き落とすことと同じだわ……)
突きつけられた残酷な真実。
リリアは、自分を縛り付けていた過去の亡霊と、いま守るべき現在の愛する人たちを天秤にかけた。
その天秤がどちらに傾くかなど、考えるまでもなかった。
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チクタク……。
チクタク……。
周囲の喧騒が完全に消え去ったリリアの頭の中で、ただ一つ、規則正しい秒針の音だけが響き始めた。
それは、彼女が『チクタクリターン』の能力を発動させる時の不協和音ではない。現実の時間が、無情にも、だが確かに進んでいく音の幻聴であった。
自らの能力で過去へ逃げるのではなく、今、目の前で流れる「現実」から目を背けず、そのまま受け入れるという決意の音。
リリアは、ガストンに警告するために開きかけていた口を、ゆっくりと、しかし強い意志を持って静かに閉じた。
助けるための言葉を、意図的に飲み込んだのだ。
その瞬間、リリアの瞳から、かつて親戚の男に怯えて震えていた十歳の無力な少女の影が完全に消え去った。
過去の自分と決別し、どんな犠牲を払ってでも大切なものを守り抜くという「覚悟」を決めた、気高く強い女性の冷徹な眼差し。
リリアは地面に手をついたまま、飛び出してくるガストンの姿を、ただマバタキき一つせずに静かに見つめていた。
チクタク……。
時間が進む。ガストンの足が大通りの石畳を踏みしめる。
猛スピードで迫る巨大な馬車が、彼のすぐ横にまで到達する。
チクタク……。
衝突。
ドゴォォォンッ!!!
スローモーションだった世界が、突如として耳をつんざくような激音と共に正常な速度へと戻った。
凄まじい衝撃音。巨大な馬車と激突したガストンの体が、先ほどと全く同じように、壊れた人形のように宙高く舞い上がった。
悲鳴を上げる間もなく、重い肉の塊が石畳に叩きつけられ、無残な音を立てて血だまりの中へと転がっていく。
「きゃあああっ!」
「誰か! 怪我人だ!」
大通りは一瞬の静寂の後、再び人々の絶叫とパニックに包まれた。
馬がいななき、野次馬たちが凄惨な事故現場を取り囲むように集まっていく。血の匂いが風に乗って漂い、光の当たる大通りは一瞬にして混沌とした惨劇の舞台へと変わった。
しかし、その光景を目の当たりにしているリリアの心は、不思議なほどに凪のように静まり返っていた。
先ほどのように罪悪感でパニックに陥ることもなく、ただ冷ややかに、地面に沈んだガストンを見下ろしている。
(今回こそ本当にさようなら、おじさん)
ガストンは、リリアを執拗に追い詰め、彼女の能力で一攫千金を得ようと強欲に駆られた結果、周囲の危険が全く見えなくなり、自ら飛び出して自滅したのだ。
リリアは一切自分の手を下していない。ただ、助けるための声を上げなかっただけ。
彼女は、自分を縛り付けていた鎖を自らの覚悟で断ち切り、ついに過去のトラウマを完全に払拭したのである。
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周囲の人々が倒れたガストンの周りで大騒ぎをしている隙に、リリアは静かに立ち上がった。
上質なメイド服のスカートについた砂や土埃を手で優雅に払い落とすと、彼女は一度も振り返ることなく、パニックに陥る大通りから路地裏へと姿を消した。
喧騒から遠ざかり、別の閑静な通りへと出たリリアは、自分のエプロンのポケットから小さな財布を取り出した。
彼女が向かったのは、屋敷とは反対の方向にある、こぢんまりとした上品な菓子店であった。
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
「ええと……こちらの、蜂蜜とナッツの焼き菓子を包んでいただけますか」
リリアは、裏路地でガストンに追いかけられた時に落としてしまった隣国の砂糖菓子の代わりに、自分の財布から新しいお茶菓子を買い直したのだ。
凄惨な死を目の前で見届けた直後だというのに、彼女の手は微塵も震えていなかった。彼女の心はすでに、過去の亡霊の死よりも、「愛する家族を喜ばせること」という未来に向いていた。
ガストンの存在など、クロエとの温かいティータイムを台無しにする理由にはならない。彼女がどれほど今の生活を大切にしているかを示す、揺るぎないタフさがそこにはあった。
甘い匂いのする新しい紙包みを大切に抱え、リリアは今度こそ真っ直ぐにアルバートの屋敷へと帰還した。
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勝手口から邸内に入ると、廊下の奥から足早に近づいてくる可愛らしい足音が聞こえた。
「リリア! 遅かったじゃない、何かあったのかと心配したのよ」
顔をのぞかせたのは、愛らしいドレスを着たクロエであった。彼女の瞳には、心からリリアを案じる純粋な光が宿っている。
リリアは紙包みを胸に抱いたまま、いつものように完璧で優雅な微笑みを浮かべた。
「申し訳ございません、クロエお嬢様。少し、人混みで遅くなってしまいましたわ」
「もう、一人で遠くまで行くからよ。……あら、その包みは?」
「はい。お嬢様がお好きそうな、美味しそうなお茶菓子を見つけましたの」
リリアが包みを開けて見せると、クロエは「わぁっ!」と花が咲いたように顔を輝かせた。
「とっても美味しそう! ありがとう、リリア。すぐにお茶の準備をさせましょう!」
嬉しそうにメイドたちに指示を出しに走っていくクロエの後ろ姿を、リリアは深い慈愛に満ちた瞳で見送った。
過去の呪縛は消え去った。自分の力と決断で、この尊い日常を守り抜いたのだ。
今の自分には、圧倒的な知識と、家族を守るための冷徹な覚悟がある。これから先、どんな困難が待ち受けていようとも、アルバートやクロエ、そして……いつか再会できるかもしれない、あの美しい人のために、自分はもっと強くなれる。
揺るぎない強さを手に入れたリリアは、胸を張り、光の差し込む屋敷の奥へと静かに歩みを進めていった。




