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チクタクリターン ~十秒だけ時間を戻せる身代わり令嬢が、孤高にして高嶺の王太子から甘く溺愛されるまで~  作者: 団田図


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第18話 追跡

(このままでは、今の幸せが……アルバート様やクロエお嬢様との大切な生活が、すべて壊されてしまう)


 リリアの脳裏に、最悪の未来が克明に浮かび上がった。


 この男の要求を少しでも呑めば、骨の髄までしゃぶり尽くされる。下手をすれば、誰も知らない闇の奥底に監禁され、一生金を生み出すための道具として搾取され続けるだろう。


(絶対に、そんなことさせない……!)


 極限の恐怖の中で、リリアの生存本能と、愛する家族を守りたいという強い意志が爆発した。彼女はガストンの濁った瞳を正面から見据え、強く瞼《まぶた》を閉じた。


 パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。


 強烈な浮遊感がリリアの身体を突き抜ける。視界が激しく歪み、ガストンの醜悪な顔と薄暗い裏路地の景色が、凄まじい速度で逆行を始めた。耳の奥で、全てを巻き戻す不協和音が鳴り響く。

 時間が、十秒前へと遡っていく。


 +++


 ふっと足の裏に固い石畳の感触が戻った。

 そこは、リリアが背後の不審な足音に気づき、早歩きで路地を抜けようとしていたまさにその瞬間だった。

 ガストンが背後から接近し、「見つけたぜぇ……」と腕を掴みかかってくる直前の未来。

 リリアは振り返ることなく、背後に迫るガストンの腕の軌道を予測し、紙包みを抱えたまま身を低くしてひらりとその手を躱《かわ》した。


「なっ……!?」


 空を掴んだガストンが間抜けな声を上げる。その隙を突き、リリアは弾かれたように路地を駆け出した。

 目指すのは、すぐ先にある人通りの多い大通りだ。人が大勢いる場所に出さえすれば、いくらガストンでも強引な真似はできない。


「チッ! 早速能力を使いやがったか。待ちやがれ、このクソガキッ!!」


 背後から、獣のようなガストンの怒声が響き渡る。ドタドタと重い足音が猛然とリリアの後を追いかけてきた。

 大人の男の全力の足に、女性であるリリアが平坦な道で勝てるはずもない。しかし、彼女の頭の中には、王都の精緻《せいち》な地図が完全にインプットされていた。

 リリアは迷うことなく、積み上げられた木箱を軽やかに飛び越え、複雑に入り組んだ細い路地を最短ルートで駆け抜けていく。メイドとして日々広い屋敷を駆け回り鍛えられた体力と身のこなしが、彼女の逃走を助けていた。


「てめえ、逃げられると思ってんのか! 捕まえたらただじゃおかねぇぞ!」


 ガストンの罵声が背中に張り付くように迫る。振り返らなくても、彼が異常な執念で距離を詰めてきているのがわかった。

 息が上がり、心臓が破裂しそうに脈打つ。紙包みを抱える腕が痺れてきたが、リリアは歯を食いしばって足を動かし続けた。

 前方に、大通りの眩い光と行き交う人々の姿が見えてきた。あと少し。あそこへ飛び出せば助かる。


 リリアが最後の角を曲がり、大通りへと飛び出したその瞬間だった。


「危ないっ!」


 誰かの悲鳴が上がった。

 リリアが視線を向けた先、建物の死角となっていた方向から、貴族が乗る豪奢《ごうしゃ》で巨大な大型馬車が、猛スピードでこちらへ向かって突進してきていたのだ。

 御者が慌てて手綱を引いているが、興奮した馬の勢いは止まらない。凄まじい蹄《ひづめ》の音と車輪の軋む音が、リリアの鼓膜を容赦なく叩く。


(間に合わない……っ!)


 足がすくみ、全身の血が凍りつくような恐怖に襲われた。このままでは轢《ひ》かれる。

 だが、その極限状態の中で、リリアの優秀な頭脳が瞬時に一つの計算を弾き出した。

 馬車の速度、自分との距離、そして背後から猛スピードで追いかけてきているガストンの位置。


(今、私がこの馬車の直前をギリギリで走り抜ければ……後ろから来るあの男を、完全に足止めできる!)


 馬車の軌道とガストンの軌道が交差する。リリアは恐怖を意志の力でねじ伏せ、命がけの跳躍で道路へと踏み出した。


 風が吹き荒れ、巨大な馬の鼻息が頬を掠める。ガタンッ、とすぐ背後を馬車の車輪が通り過ぎていく。ほんの数センチでも判断が遅れていれば、間違いなくリリアは馬の蹄の下敷きになっていた。


 だが、リリアは見事に馬車の前を横切り、道路の反対側へと転がり込むことに成功したのだ。


「はぁっ、はぁっ……!」


 地面に倒れ込みながら振り返るリリア。

 しかし、彼女の目に入ってきたのは、足止めされたガストンの悔しがる姿ではなかった。

 薄暗い路地から大通りへと飛び出してきたガストンは、前を走るリリアの背中を捕まえることだけに完全に思考が固定されており、周囲の状況が一切見えていなかった。

 猛スピードで迫る大型馬車の存在に気づかないまま、彼は怒りの形相でそのまま道路のど真ん中へと飛び出してしまったのだ。


「おい、待ちやが――」


 ガストンの言葉は、凄まじい衝撃音にかき消された。


 ドゴォォォンッ!!!


「ひっ……!」


 リリアの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。


 巨大な馬車と激突したガストンの体が、まるで壊れた人形のように宙高く舞い上がった。重い肉の塊が石畳に叩きつけられ、無残な音を立てて転がっていく。


 大通りは一瞬の静寂の後、人々の絶叫とパニックに包まれた。


「誰か、怪我人だ!」

「ひどい血だ……おい、しっかりしろ!」

「こりゃ助からんぞ」


 周囲の悲鳴が遠く聞こえる。目の前で起きたあまりにも凄惨な事故に、リリアは目を見開いたまま呼吸を忘れていた。

 ガストンは憎むべき存在であり、自分の人生を壊そうとした悪魔だ。それでも、人間が目の前で原型を留めないほどに跳ね飛ばされ、血だまりの中に沈んでいく光景は、二十歳の女性の精神が耐えられるものではなかった。


(私が……私が逃げたから……。私のせいで、人が死んだ……!?)


 激しいショックと罪悪感が、リリアの頭を真っ白に染め上げる。ガタガタと全身の震えが止まらない。

 目の前の惨状を受け入れきれず、現実から逃避するように、リリアは無意識のうちに、強く瞼を閉じてしまった。


 パチ、パチ、パチ。


 それは、考えるよりも先に身体が起こした、生存本能としての拒絶反応だった。

 再び世界が大きく歪み、強烈な浮遊感がリリアを襲う。行き交う人々の悲鳴が逆行し、宙に舞った血しぶきが吸い込まれるように元の位置へと戻っていく。

 彼女は意図せず、再び『チクタクリターン』を発動させてしまったのだ。


 +++


 視界が晴れ、足に地面の感覚が戻る。

 そこは、凄惨な事故が起きる正確に十秒前の世界。

 リリアが命がけで馬車の前を走り抜け、道路の反対側へ転がり込んだ直後だった。


「はぁっ、はぁっ……!」


 息を切らしながら顔を上げたリリアの視線の先。

 路地の暗がりから、リリアを捕まえようと怒り狂った表情のガストンが、猛スピードで迫る馬車に気づかないまま、まさに今、大通りへ飛び出そうとしている瞬間であった。


(あっ……!)


 時は十秒だけ巻き戻った。

 だが、その数秒後には、再び全く同じ惨劇が繰り返される。未来の選択権は今、地面に倒れ込んでいるリリアの手に委ねられていた。

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