第16話 宙を舞うティーポット
王都セント・グランデの片隅にある古書店に、カランと静かなベルの音が響いた。
あの日、薄汚れた孤児としてこの店の敷居を跨いだリリアは、今や二十歳の美しく知的な女性へと成長していた。大富豪アルバートの屋敷でメイドとして働き始めてからも、非番の日にはこうして古書店へ通い、知識の探求を続けている。
「お前も飽きないねぇ。今日は何を読んでるんだ?」
すっかり丸くなった気難しい店主が、呆れたように声をかける。リリアは手元の分厚い古文書から顔を上げ、優雅に微笑んだ。
「他国の古い言語と、複雑な暗号に関する専門書です。過去の権力者たちが、どのように機密情報を隠していたのか……とても興味深くて」
「そいつはメイドが読む本じゃねえな、相変わらず末恐ろしい娘だ」
店主は肩をすくめながらも、その目にはリリアに対する深い愛情と信頼が浮かんでいた。リリアにとって、知識こそが自分と大切な人たちを守る最大の武器である。特殊な能力を持とうと、どれほど屋敷での生活が恵まれたものになろうと、彼女が学ぶ手を止めることは決してなかった。
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夕刻、リリアがアルバートの屋敷へと戻ると、邸内はいつも以上の活気に満ちていた。
「クロエ! リリア! 見てくれ、素晴らしいものを手に入れたぞ!」
上機嫌な主人のアルバートが広間に広げたのは、息を呑むほど美しい一反の布地だった。光の加減によって夜空から朝焼けへと色を変えるような、神秘的な光沢を放っている。
「まあ……! お父様、これって……」
十八歳になったクロエが、目を輝かせてその布に駆け寄った。極度の人見知りであった彼女も、リリアという心強い「姉」の存在のおかげで、家族の前では年相応の無邪気な笑顔を見せるようになっていた。
「旦那様、これはもしや、王国の特産品の中でも幻と呼ばれる『星結びの絹』ではございませんか?」
リリアが古書店で得た知識を元に尋ねると、アルバートは我が意を得たりと大きく頷いた。
「その通りだ、リリア! お前の教養の深さにはいつも驚かされる。これは特別な技術で織られた絹でな、市場には滅多に出回らない。クロエが社交界のパーティーに出る時のために、とびきりのドレスを仕立てようと思ってな」
「私に……?」
クロエは嬉しそうに微笑むと、すぐに屋敷のお抱え仕立て屋が呼ばれ、採寸と仮縫いが始まった。
採寸の最中、クロエはふと何かを思いついたように、仕立て屋の袖を引いた。
「あの、お願いがあるのだけれど……。背中の編み上げとウエストのあたりに、伸縮性のあるゴムをうまく使って、サイズを変動できるように作っていただけないかしら?」
「は? ゴム、でございますか?」
仕立て屋は目を丸くした。最高峰の絹を使った一点物のドレスに、わざわざサイズが変わっても着られるような実用的な工夫を凝らすなど、貴族や富裕層の常識ではあり得ない注文だったからだ。
「ええ、どうしてもそうしてほしいの。少しゆとりを持たせて……念のため、私が急に成長してもぴったり合うように、ね」
「クロエがそう言うなら、その通りにしてやってくれ」
アルバートが鷹揚に頷くと、仕立て屋は困惑しながらも指示を書き留めた。リリアは、クロエがなぜ急に体型が変わることを気にしたのか不思議に思ったが、成長期の令嬢ならではの細やかな悩みだろうと微笑ましく見守っていた。
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ドレスの打ち合わせが一段落し、休憩の時間となった。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
緊張で声を上ずらせながら応接室に入ってきたのは、つい最近屋敷で働き始めたばかりの新米メイドだった。彼女の持つ銀のトレイには、熱々の紅茶がなみなみと注がれた陶器のポットが乗っている。
(少し、手が震えているわね……)
リリアがフォローに入ろうと一歩踏み出した、まさにその時だった。
「きゃっ!」
新米メイドのつま先が、絨毯の僅かな段差に引っかかった。彼女は大きくバランスを崩し、手から銀のトレイがすっぽ抜けた。
宙を舞ったティーポットが、放物線を描いてテーブルの上へと向かっていく。そのすぐ下には、先ほど広げられたばかりの幻の『星結びの絹』が無防備に置かれていた。
バシャーン!!
「嘘……!」
クロエの口から、絶望の悲鳴が上がる。煮えたぎる紅茶が幻の絹に降り注ぎ、みるみる縮んでいき、台無しになるまでの一瞬。
リリアの瞳に、迷いは一切なかった。彼女は即座に目を強く閉じ、連続で三回、マバタキをした。
パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。
強烈な浮遊感と共に、十秒の時間が巻き戻る。
逆再生される世界の中で、リリアの頭脳は冷静に最適な行動を計算していた。
ふっと足に大地の感覚が戻る。そこは、新米メイドが応接室に足を踏み入れ、絨毯の段差に差し掛かる直前の時間だった。
リリアは床を強く蹴り、メイドとテーブルの間に向かって迷いなく滑り込んだ。
直後、「きゃっ!」という悲鳴と共に、未来と同じようにメイドが躓き、熱いポットが宙を舞う。
「危ない!」
リリアは空中に放り出されたティーポットの胴体を、逃げることなく、自らの両手で直接ガシッと受け止めた。
「くっ……!」
陶器越しに伝わる熱湯の凄まじい熱さが、リリアの掌を容赦なく焼く。しかし彼女は歯を食いしばって激痛に耐え、ポットから一滴の紅茶もこぼすことなく、幻の『星結びの絹』を完全に無傷で守り抜いたのだ。
「リリア!」
クロエが悲鳴を上げて駆け寄る。リリアがそっとテーブルにポットを置くと、彼女の両手はすでに赤く腫れ上がり、酷い火傷を負っていた。
「あなた、なんてことを! 手が、手が真っ赤じゃない……っ!」
「大丈夫ですよ、クロエお嬢様。……絹も、お嬢様の笑顔も無事で、本当に良かったです」
痛みを隠して優しく微笑むリリアを見て、クロエは大粒の涙をこぼし、「絹なんて……お姉さまの手の方が大切よ」と泣きながらリリアに抱きついた。その自己犠牲と深い愛情を目の当たりにしたアルバートも、言葉を失い、リリアに対する絶対的な信頼を確固たるものにしていた。
その傍らで、大惨事を引き起こしかけた新米メイドは、顔面を蒼白にしてガタガタと震えていた。
「も、申し訳ございません! 私のせいで、リリア先輩が……っ。わ、私なんか、すぐにクビに……」
恐怖と罪悪感で泣き崩れる新米メイド。その姿に、リリアはかつて理不尽に虐げられ、失敗に怯えていた幼い日の自分を重ねていた。
リリアは火傷を負った手を冷水で冷やしてもらいながら、新米メイドに向けて限りなく優しい声で語りかけた。
「誰にでも、失敗はあるわ。あなたがわざとやったわけじゃないことくらい、私が一番よく知っているもの」
「リリア、先輩……」
「だから、泣かないで。私はあなたを信じているわ。……もう一度、美味しいお茶を淹れ直してきてくれるかしら? クロエお嬢様も、あなたのお茶を楽しみに待っていらっしゃるのよ」
罰を与えるのではなく、もう一度信じて役割を任せる。リリアのその深い慈愛に満ちた教育は、新米メイドの心を救い、屋敷の者たちのリリアへの敬愛をさらに揺るぎないものへと変えていくのだった。




