第15話 大切なガラス細工
リリアが銀のトレイを持って静かに部屋へ足を踏み入れると、窓際の柔らかな光の中に佇むクロエの姿があった。
クロエは手の中に小さな何かを包み込み、大切そうに見つめている。
リリアは足音を立てずに近づき、サイドテーブルにお茶のセットを置きながら、クロエの手元にあるものに目を留めた。
それは、繊細な意匠が施されたガラス細工の小鳥であった。光を透過してキラキラと輝くその精巧な作りに、リリアは思わず目を奪われた。
「とてもお奇麗ですね」
純粋な感嘆の念から、リリアはクロエが持っていたガラス細工を見てそう褒めた。
しかし、極度の人見知りであるクロエにとって、他者からの不意の言葉は強い緊張を強いるものだった。
「ひっ……!」
ビクッと肩を跳ねさせたクロエは、慌ててそのガラス細工をドレスのひだに隠そうとした。他人に自分の大切なものを見られることに慣れておらず、反射的に身を縮めてしまったのだ。
だが、その急な動作の拍子にクロエの手元が狂い、指先から大切な形見がすり抜けてしまった。
ガラス細工の小鳥が、机の縁を滑り落ちていく。
「あ……」
クロエの小さな口から、微かな声が漏れる。
そのまま重力に引かれたガラス細工は、冷たい大理石の床へと落下し、甲高い音を立てて無惨にも粉々に砕け散ってしまった。
美しい小鳥だったものは、ただの鋭利で冷たい破片と化して床に散乱している。
それを見たクロエは、壊れるガラス細工を前にして絶望の悲鳴を上げた。
「ああああっ……! お母様の大切な……私の、私の……っ!」
両手で顔を覆い、その場にへたり込んで泣き崩れるクロエ。その悲惨な光景を見たリリアの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
(いけない、あれはクロエお嬢様の心そのものだわ!)
メイドとして働き始めてから、リリアはずっとクロエの怯えたような瞳の奥にある孤独を感じ取っていた。その孤独を慰めていた唯一の心のよりどころが、あのガラス細工だったのだと直感した。
リリアは一瞬の迷いもなく、即座に目を強く閉じ、マバタキを三回した。
パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。
強烈な浮遊感と吐き気がリリアの身体を突き抜ける。周囲の空気が歪み、鼓膜を引っ掻くような逆再生の音が部屋中に響き渡る。
床に散らばっていたガラスの破片が見えない糸に引かれるように空中に舞い上がり、美しい小鳥の形へと修復されながら、クロエの指先へと戻っていく。
時間が、十秒前へと巻き戻ったのだ。
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ふっと浮遊感が消え、足の裏に確かな床の感触が戻る。
時間が十秒前に巻き戻った世界で、リリアはサイドテーブルにお茶のセットを置こうとしている瞬間だった。
目の前には、まだ手の中にガラス細工の小鳥を持ち、静かにそれを見つめているクロエがいる。
「とても奇麗ですね」
リリアは先ほどと全く同じ声のトーンで、同じ言葉を口にした。
「ひっ……!」
クロエが驚き、慌ててそれを隠そうとして手元が狂う瞬間を、リリアはあらかじめ予測していた。
机からガラス細工が滑り落ちるまさにその刹那、リリアはお茶のトレイを素早く置き、スッと身を乗り出して両手を差し出した。
ふわり、と。
リリアは落下していくガラス細工を、大理石の床に激突する寸前で、見事にノーバウンドでキャッチすることに成功したのだ。
沈黙が部屋に落ちる。
クロエは、自分の手から滑り落ちて砕け散るはずだったガラス細工が、リリアの柔らかな手のひらの上で無傷のまま守られているのを見て、信じられないものを見るように目を丸くした。
「……あっ」
「大切なものをお守りできて良かったです」
リリアはそっと立ち上がり、安心させるような優しく微笑みを浮かべながら、ガラス細工の小鳥をクロエの小さな両手へと丁寧に返した。
その瞬間、クロエの張り詰めていた心が音を立てて解けていくのが分かった。
これまで他人の視線に怯え、誰にも心を開こうとしなかった彼女の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出す。
「あ、ありがとう……。本当に、ありがとう……」
震える声でそう呟いたクロエは、リリアに対して初めて特別な視線を向けるようになったのだ。それは、単なる使用人に対するものではなく、自分を理解し、大切なものを守ってくれた救い主に対するような、熱を帯びた眼差しであった。
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その出来事をきっかけに完全に心を開いたクロエは、リリアが淹れた温かい紅茶を飲みながら、これまでの孤独な過去を語り始めた。
「私、ずっと怖かったの。……外の世界の人たちが」
クロエは、自分がなぜ極度の人見知りになってしまったのかを、ぽつりぽつりと打ち明けた。
アルバートは莫大な富を築いた大富豪であるが、貴族階級から見れば、彼らは「新興の豪商」に過ぎない。絶対的な身分制度と伝統を重んじるグランデリア王国の社交界において、古参貴族の令嬢たちはアルバートのような成り上がりを激しく嫌悪していたのだ。
クロエもまた、幼い頃からその悪意の標的にされてきた。華やかなお茶会や夜会に呼ばれても、高慢な令嬢たちから冷ややかな視線を浴びせられ、伝統を重んじる古参貴族の令嬢たちから冷遇された過去があったのだ。
「誰も、私の本当の姿なんて見てくれない。みんな、お父様の財力を利用したいか、私たちを成り上がりだと馬鹿にしているか、どちらかだったわ」
そう言ってうつむいたクロエは、両手で包み込んでいるガラス細工の大切さと、亡き母親との思い出をリリアへ話し始めた。
「この小鳥は、お母様が亡くなる前に私にくれたの。『あなたはいつか、この小鳥のように美しい空を自由に羽ばたけるわ』って。……でも、私にはそんな勇気なんてない。この部屋で、これを見つめている時だけが、唯一の安らぎだったの」
リリアはクロエの痛切な告白を、静かに、そして深く頷きながら聞き入っていた。
理不尽な身分制度や大人の悪意によって傷つけられ、狭い世界に閉じこもるしかなかったクロエの孤独は、裏路地で虐げられていたかつてのリリア自身の境遇と重なるものがあった。
(クロエお嬢様は、決して弱いわけじゃない。ただ、優しすぎて、他人の悪意に傷つきやすかっただけなんだわ)
リリアはそっとクロエの隣に座り、彼女の手の中にあるガラス細工の小鳥を見つめた。
そして、古書店で猛勉強をして培った持ち前の知識を活かし、静かに口を開いた。
「お嬢様、このガラス細工は隣国の旧帝国で作られたものですね。その特殊な意匠と光の屈折率は、百年前の伝説的な職人であるマイスター・ルミエルの工房のものです」
「え……?」
クロエが驚いて顔を上げる。リリアは優雅に微笑みながら、そのガラス細工の名産地や、職人がどのような思いを込めてこの小鳥を作り上げたのかという歴史の深い話をクロエへ聞かせた。
「ルミエルは、どんなに暗い場所でもわずかな光を集めて輝くように、このガラスを特別な技法で磨き上げたそうです。亡き奥様はきっと、お嬢様に『どんな暗闇の中でも、あなた自身の輝きを失わないで』と伝えたかったのではないでしょうか」
リリアの紡ぐ言葉には、圧倒的な教養に裏打ちされた説得力と、クロエの心に寄り添う深い優しさが込められていた。
母親の真意に触れられたような気がして、クロエの瞳から再び涙が溢れる。しかしそれは、先ほどまでの悲痛な涙ではなく、温かい安堵の涙であった。
「……リリア。あなたって、本当にすごい人なのね。まるで、魔法使いみたい」
「いいえ、私はただのメイドです。でも、お嬢様の大切なものを守るためなら、どんなことでもいたしますわ」
この日を境に、二人の間の見えない壁は完全に崩れ去り、その絆は深く強固なものとなった。
極度の内気であった豪商の令嬢クロエにとって、リリアは単なる使用人ではなく、深い知識と優しさで自分を導いてくれる、かけがえのない「自慢の姉」としての存在になっていくのであった。




